第4章 米軍基地と施設
1.主客が転倒した米軍基地使用
韓米相互補防衛条約 第4条
相互的合意によって、米合衆国の陸軍、海軍と空軍を、大韓民国の領土内とその付近に配置する権利を、大韓民国はこれを許与し合衆国はこれを受諾する。
韓米相互防衛条約第4条によれば、米軍が韓国内の基地を使用する上で、韓国が要請して米国が受諾する「主客が転倒」した形になっている。自国の土地を他人が借りて使うのに、地主はこれを許容し、むしろ借りて使う米軍がこれを受諾するというのだから、いったいこの国の主人は誰だというのか。まして、駐韓米軍の駐屯目的がまったく明示されておらず、わが国の施設と区域の使用目的が、必ずしも韓半島の安全と関連がないものになり得る危険性を抱えているのだ。
外国軍が、ある国に半世紀近く駐屯しているということ、まして、軍作戦指揮権がわが国に無く米軍が保有した状況(現在、平時軍作戦指揮権のみ委譲された状態)で、非常に危険なことと言わざるを得ない。米軍が大韓民国に駐屯できるのは、まず、第2次世界大戦で米国が日本に勝利したことによって韓国を解放してくれたという点、2番目に、1950年の韓国戦争時に南韓を助けてくれたという点、第3に、虎視眈々と狙う北韓の戦争挑発に対して戦争抑止力になるという認識が支配的なためだ。このような三つの論理が、韓国が駐韓米軍に施す様々な特恵が正当なものとなる所以だ。
しかし、米国は韓国の安保だけのために駐屯するのではない。最近、米国から『韓半島が統一されても米軍を駐屯させる』と明らかにしたように、根本的には米国の影響力確保のため、米国の利益から米軍の駐屯が出発しているということだ。また、駐韓米軍の駐屯目的が条約には明示されていないとして、韓半島の安全と関連無く米国の利害関係によって南韓の施設と区域は使用できるのだ。米国が我々の意思とは無関係に、南韓でたとえ戦争を起こしたとしても、そのことはまったく合法的なことだ。
集中探求1
日本の沖縄米軍基地返還運動を通して見た世界の米軍基地
世界の米軍基地
米国は1996年現在、わが国だけでなくドイツ、イギリス、日本、イタリア、オーストラリア、パナマ、スペイン、トルコ、ベルギー、ギリシャ、アイスランド、オランダ、キューバ、ポルトガル、ディエゴガルシア、ホンジュラス、バーレーンなど、世界各国に米軍を駐屯させている。さる1991年に基地賃貸期限が終わり、今は米軍基地が無いフィリピンのような国もある。そして、グァムのように未だに米国の植民地として、いわゆる「米国領」になっている国もある。
米軍基地がある大部分の国では、米軍基地に対する政府と一般国民の考えが異なることが知られている。大部分の政府は、米国の威力の前に消極的であったり隷属的な態度を見せているのに対して、一般の国民は米軍基地による各種の弊害のため、米軍基地の駐屯に反対しているのだ。
米軍基地がある各国の基地周辺住民達が受ける弊害を見れば、わが国が最もひどい方で、程度の差はあるが、他の国も騒音、退廃、核放射能漏出の危険など、ほとんど似かよった弊害を負っていることが明らかになった。特に、核放射能の漏出を憂慮したカナダの市民の場合、米国領ではあるが、カナダと隣接している米軍基地に対しても反対するだけでなく、核の搭載可能性がある米軍船舶がカナダ領海を経由して往来することさえも阻むほどの活発な運動を展開している。
外国の米軍基地は該当国家と賃貸契約を締結
わが国を除外した大部分の国では米軍基地賃貸期間が定められており、その期間が満了する何年か前から、いわゆる「基地協商」を通して期間を延長していることが明らかになった。よく知られているようにフィリピンがそうだったし、日本とオーストラリアがそうだ。スペイン、トルコ、ギリシャ、ポルトガルなども同じだ。
また、米軍基地と関連したことではないが、ソ連と北韓が1961年7月6日に締結した〔友好・協力・相互援助に関する条約(朝・ソ軍事条約)〕も有効期間が定められていた。その内容を見れば次のようだ。『本条約は10年間の効力を持つ。締約国の一方が期限満了に対する希望を表示しないならば、条約は次の5年間継続して効力を持ち、これと同じ手続きによって今後有効期間が延長される。』
韓国は別途の契約無く無期限に米軍基地使用を保障
ところが、米国が1953年にわが国と結んだ(韓米相互防衛条約)第6条には、「本条約は無期限に有効」となっている。この(韓米相互防衛条約)第4条にしたがって、66年7月9日に署名されて1967年2月9日から現在まで発効されており、今後も発効される(韓米行政協定)第31条には、『本協定及び本協定の合意された改正は、両政府間の合意にしたがってその以前に終結されない限り、(韓米相互防衛条約)が有効な間、効力を持つ』となっている。
したがって、世界各国の米軍基地に比べてわが国の米軍基地は、永久的に米国の土地になってしまう可能性が大きい。結局、米軍基地を返してもらうことは米軍駐屯の根拠になる(韓米相互防衛条約)の有効期間を設定してこそ可能だろう。
日本の米軍基地現況
日本には現在105カ所の米軍基地があり、全体面積は32,475ヘクタールに達する。その内で、43の基地(24,239ヘクタール)が沖縄にある。駐日米軍基地の中で国有地は1/5だけで残りは私有地だ。駐日米軍の全体数は5万余名であり、その中の3万名以上が沖縄にいる。基地従事の民間人と軍属まで合わせれば、沖縄には52,000余名の米軍人が住んでいる。さる91年、フィリピンのクラーク空軍基地が閉鎖されると、そこにあった飛行機と兵力が沖縄に移動配置された。
米国は第2次世界大戦の勝戦国として、戦犯国であると同時に敗戦国である日本を5年間軍政で統治した。米軍政実施以後、米国は沖縄を除外した日本全地域を日本に変換し、沖縄が最後に米軍政から脱したのは1972年5月のことだった。さる1992年は、沖縄が日本に変換されて満20年になった年として重要な意味を持つ。この時に合わせて米・日両国政府の指導者達は、両国の政府が戦略的に協力しているという点を再確認したが、沖縄の住民達は沖縄返還(彼らは「奪還」と表現したりもする)20周年を期に、沖縄米軍の完全撤収を要求したのだ。
沖縄の戦闘
第二次世界大戦期間、日本の陸上ではほとんど戦闘が行われなかった。日本の陸上で行われた唯一の戦闘は沖縄戦だけだった。この唯一の陸上戦闘は沖縄の住民に極めて残忍だった。この当時を経験した沖縄の住民は、1945年3月26日から6月23日までの3ヶ月間に行われたこの戦闘を、今日までも『鋼鉄台風』と比喩する。当時、日本軍は約8万余名、対する米軍は54万8千名だった。この戦闘で、米軍の十字砲火により沖縄全体人口の1/3である20万余名が死んだ。[沖縄戦闘]の著者であり沖縄県知事である大田昌秀氏は、自著で次のように書いている。
『敵が祖国に攻め込んでくれば、天皇の「無敵軍隊」が防衛してくれると信じたのは住民の素朴な希望だった。住民は「無敵軍隊」が最小限子供と老人だけでも保護してくれると信じた。この点に対して微塵も疑わなかったために、住民達はすべての困難を耐えながらも「地域防衛軍」に入隊する考えさえしなかった。』
沖縄を裏切った日本帝国軍隊
しかし、沖縄にはその「無敵軍隊」が到着せず、沖縄地域防衛軍が継続して帝国軍隊に空中支援を要請したが、帝国軍隊は沖縄のこの切迫した要請を一蹴し、その間に連合軍は沖縄を焦土化させた。帝国軍隊は沖縄を除外した主要な島、つまり「日本本土」の防御時間を稼ぐために沖縄を犠牲にしたのだ。沖縄の米軍基地は、この戦闘の直接的な結果として生まれたのだ。
その時からこの島は米軍の手中に入り、米国はこの島を占領するや、迅速に嘉手納空港と読谷空港を拡張して米軍基地として使用した。この二つの空港は、どちらも日本本土攻撃に備えて日本軍が作った空港だった。
さる1984年6月には、嘉手納基地1番ゲート前で延べ人数一千余名の労働者が24時間連座示威を8日間にわたって行った。しかし、この基地は1952年まで実施された米軍政と、軍政後すぐに始まり1972年まで継続された米国の民間支配を経て50年を超える今日までもこれ見よがしに残っている。
無差別的な米軍基地拡張
米軍当局は、米軍基地を拡張する過程で、沖縄住民の私有財産、土地所有権などを完全に無視し、沖縄の全地域にわたって基地を構築した。数千名の住民が戦犯者として逮捕されて抑留された状態であったため、米軍が軍用ブルドーザーを動員して家と学校などの主要な建物をかたっぱしに壊しても、沖縄の住民はこれを止めることができなかった。普天間空軍基地を建設する時は、宜野湾市の中心地域をことごとく破壊した。
戦争が終わった後も、冷戦の緊張状態が継続すると、軍事戦略的に重要な位置を占めている沖縄の状態も持続された。特に、北韓を牽制するという名分で沖縄の戦略的重要性は大きな威力を発揮した。結局、1953年に米軍は「土地徴発法」という法を宣布した。それで、多くの沖縄の住民が那覇市と読谷村をはじめ、軍事基地拡張の対象となったすべての地域にある土地の財産権を放棄せざるを得ないようにした。
繰り返される日本政府の裏切り
沖縄住民の粘り強い闘争の結果、ついに1972年に沖縄が再び日本政府に変換された。しかし、米軍の利益のために今回も沖縄の利益はもう一度犠牲になった。米日両国の間に財産返還協定が締結されはしたが、この協定は米国が駐日米軍基地を封鎖するどころか、むしろ拡張することができる条項を含めたものだ。
1992年の財産返還20周年記念日は非常に重要な意味を持つ。1992年は、この間米軍基地用に賃貸してきた私有地の賃貸契約が期間切れになる年だったためだ。この時、土地所有者575名が契約更新を拒否した。沖縄の地主は、自分の土地が米空軍仮設滑走路や基地に使用されることを、これ以上望まなかったのだ。彼らは自分の土地を公園や娯楽施設、都市、農耕地、遊園地などに転換して開発することを望んだ。しかし結局、沖縄の一般住民の情緒を適切に考慮し、基地撤収ではなく賃貸契約期間を少し延長する線で基地協商が締めくくられた。しかし、その契約期間は以前の10年ではなく5年に縮まった。そして、その時から5年後である1997年には再び契約条件を更新するか、フィリピンでのように米軍基地を返還せざるを得ないようになったのだ。その過程で米国は、たとえ小規模施設であっても米軍基地3カ所を日本に返還することにした。
外信によれば、その後の1995年5月に日本の平和運動家達と市民達は、「米軍基地返還」を要求し米軍基地を取り囲む14qの人間の鎖を展開したりもした。
継続される住民の被害
沖縄島は海辺の遊歩道が大変有名だ。だから沖縄は、国内外の多くの観光客誘致をしようと努力している。沖縄観光産業は主にこの海岸線に依存してる。ところが、この最上の海岸線を、米国という外国の軍事基地が相当な部分を占めている。また、米軍は市の中心街に位置する多くの基地で定期的に各種の軍事訓練をする。甚だしくは、落下訓練もする。そのために、訓練中大小の事故が発生し、多くの財産損失が生じ、住民が負傷したり死ぬ場合も数多い。
ある時は小学校5年生の少女が、飛行中の航空機から落ちたトレーラーの下敷きになって死んだこともあった。実弾が家と学校のような建物を貫通したこともあった。その度に米軍当局は住民に訓練中断を約束したが、訓練は継続され、そのような訓練による事故と「民家隣接爆撃」もまた同じく継続された。そのために、騒音公害も1年中激しくならざるを得なかった。その上、特殊訓練が行われるする期間には、その程度が言葉にならないほど激しい。
日本で米日両国が合同で行う軍事訓練で、さる92年「ビーチクレスト92」という訓練があった。「海辺の極致」という意味の名前を持ったこの米日合同軍事訓練には、主に米海軍が参加して主導し、5日間続けられた。この期間には早朝6時から空が崩れそうな砲火音が始まった。嘉手納市の住民がこの砲火音に驚いて目を覚ます時刻も勿論早朝6時だった。この訓練に使用した実弾は幹線の高速道路を突っ切って運搬した。
平和の島、沖縄
沖縄は一時期「礼儀正しく平和を愛する地方」という意味を持った「守礼の国」という名で名声が高かった。
しかし、第2次世界大戦とその後に続いた冷戦気流のため、今はそんな姿が完全に消え失せた。むしろ今日の沖縄には軍事文化と軍事基地の臭いが広がっている。
どの都市であれ、どの村であれ、軍事基地が少しも無い都市や村はない。まして、訓練場に指定された高速道路ごとに鉄条網が列をなしている。民家が密集している地域に飛行場が場を占めている所もある。
このように軍事基地が民家の奥深く場を占めているだけに、軍事基地反対住民運動も軍事基地の奥深くまで入り込んでいる。沖縄にある53の地方自治団体の中で「非核平和地帯」と宣言したところが9つの市、10の町、12の村など31カ所になった。また、ほとんどすべての自治団体で反核運動団体が活動している。そのために、この反核運動団体は軍隊で起こる核事故を含めて、どんな事故であれ島の全地域から申告を受けている。こんな事故申告を受け付け始めて、反核運動がいっそう活気を帯びるようになるのは勿論だ。
例えば、沖縄の反核活動家達が立てた大型の鉄製構造物を見ることができる。米国と日本が合同で軍事訓練をする時には、日本の自衛隊が使用する訓練施設と米軍が使用する軍事訓練施設を並んで設置するが、反核運動家達はこの二つのゲリラ戦闘訓練施設の間にこの鉄製構造物を設置する。そして、両国の軍隊が訓練する間、反核活動家達がその鉄製構造物に上って、拡声器で米軍と日本の自衛隊員達を「敵」と想定して彼らの位置と現状況を下にいる住民達に知らせ軍事訓練を妨害するほどだ。
地方自治団体長が前面に立つ米軍基地返還運動
沖縄の反核運動はこのような反核活動家達にだけに限られていない。さる1991年10月8日には沖縄県知事が直接立ち上がった。当時、沖縄県の大田知事は、米軍の射撃訓練を参観した後、その地域のすべての学校長、市長、町長などに会って意見を聞いてから、駐日米領事であるリチャード・クリステンセン将軍を呼んだ。大田知事は、学生が射撃訓練に関して書いた各種の記録を渡して訓練中止を要請した。この席でクリステンセン領事は、安全措置と騒音防止などを約束したが、大田知事は不発弾の危険性と自然環境の破壊をあげて拒絶した。
大田知事はこれに留まらず、日本政府の引き留めにもかかわらず、政府と合意もないままに直接米国まで訪ねて行った。沖縄の住民の苦痛を理解して沖縄の原住民に沖縄を返してあげよと主張する、米国の幾人かの良心的な官吏と下院議員に会って直接訴えるためだった。沖縄県の住民であり、自分の有権者が願ったためである。
この他に、横浜地区には市内のど真ん中に22の米軍住宅施設、倉庫、事務所などがある。東京の横田と厚木にも米軍基地がある。平和運動家達は横田米空軍基地の反対側の建物の屋上に、観光地で見かけるような備え付け望遠鏡を何台も設置して、誰でも100円硬貨を入れて好きなように米軍基地を監視し撮影もできるようにしている。
拡散し続ける大衆運動
米軍基地がある港湾都市横須賀では、活動家達が自分の船で海へ出て米軍基地を撮影し、核兵器積載の可能性がある米国の船舶の入港に反対する海上示威を行ったり、毎月最後の日曜日には、季節と天候に関係なく、市内の米軍基地正門前で「米軍基地返還」などを要求するデモをすでに20年余り続けている。
特に〈横須賀市民の集い〉では、ベトナム戦争が盛んだった1960年代、駐日米軍の中でベトナムに派兵されるのを恐れて脱走した米軍兵士を保護する運動も展開し、その時に使用した事務所を、30年が過ぎた1995年現在までも使用しながら持続的な反基地活動を展開している。日本は今、横田と厚木の内一つを返してもらい東京第3の国際空港として使用する準備をしている。横田のある市会議員はこのように語った。
『有権者が米軍基地返還を望むのは事実です。しかし、米軍基地を返してもらえば、地方財政の相当部分を占める米軍基地賃貸料収入が減るが、その場合の税負担が大きくなるのを懸念する住民も多いのです。それで、米軍基地の場所に何を誘致すれば予算の不足分を埋め合わせることができるのか、多角的に検討して選挙公約に掲げて市長選に出馬する考えです。』
民族の自主権を確保するためにも完全な地方自治制は必須であることを確認させてくれるテーマだった。
沖縄から学ぼう
日本で米軍基地反対運動が始まったのは1969年1月のことだ。当時、米国の核空母エンタープライズの佐世保入港に反対したのだ。それ以後、神奈川県逗子にある弾薬庫勤務の米軍家族住宅建設計画反対、東京の三宅島米軍飛行場建設計画反対、厚木空軍基地騒音公害被害訴訟など、絶え間ない合法・非合法の闘いを継続している。
特に、日本の反基地運動家達は民間人が立ち上がり、米軍基地の敷地を買って他の平和的用途に使用しようという、いわゆる「一坪買入運動」、沖縄戦の実相を撮影した映画フィルムを全住民が共に購入しようという、いわゆる「1フィート購入運動」など、斬新な企画を通し、ほとんど全住民の反米軍基地参与を引き出すことに成功している。
米国の謝罪を引き出した沖縄
沖縄の米軍基地返還運動は、95年9月に発生した駐日米軍の小学生少女拉致・暴行事件によって画期的転換点を迎えた。
見ようによっては、単純な米軍犯罪から出発した大衆的な運動が米軍基地返還運動へと発展していった。昨年の秋、8万5千名に達する住民の決起があり、太田知事は沖縄の米軍基地使用に必要な地方自治団体長の署名を、日本政府の懐柔と圧力にもかかわらず最後まで拒否した。それだけでなく太田知事は、急いで米国を訪問して米国議会と主要な政府役人達を対象に、沖縄住民の被害実態を知らせ米軍基地返還を求める多様な活動を展開した。
米国は事態を早期収拾するため、駐日米軍司令官、国務長官をはじめ、クリントン大統領までが直接日本国民に米軍犯罪に対して謝罪し、二日間「駐日米軍反省の日」を宣布・施行するなどのジェスチャーを見せた。しかし、沖縄の住民はこのような改良に満足せず闘い続けた。
96年4月、クリントン大統領の訪日を迎えて沖縄の住民は9万余名が決起し、米国の降伏を引き出した。米国は沖縄の米軍基地の20%を5〜7年以内に住民に返還することにしたのだ。
編集者 注)米国が沖縄の米軍基地の20%を返還するという合意が発表された後、ペリー米国防長官は、沖縄から撤収する米軍基地を韓国に移転する問題を検討していると明らかにした。駐韓米軍が確保している米軍基地以外の米軍供与地を勘案する時、我々の将来がいっそう不安だ。
2.米軍基地使用に対する契約がない
(形式は「韓米間の協議」、内容は「米軍の思いのまま」)
韓米行政協定第2条1.(ロ)
本協定の効力発生時に合衆国軍隊が使用している施設と区域、及び合衆国軍隊がこのような施設と区域を再使用する時に、合衆国軍隊がこれを再使用するという留保権 を持ったまま返還した施設と区域は、前記(イ)項にしたがって両国政府間に合意さ れた施設と区域とみなす。
1967年以前に米軍が使用していた施設と区域を、別途の協議手続き無しに米軍が意のままに使用するよう規定したものだ。したがって、この規定は本協定第2条1項(イ)によって米軍が基地を使用するに上で、「韓米間の協議を通して行う」という規定を有名無実にしてしまった。
米軍基地などの供与地造成は、1945〜48年の米軍政と1950年の韓国戦争に遡る。米軍政時代には、米軍は「占領軍」の地位を持って一切の排他的権利を行使したが、米軍基地についても彼らの任意で思いどうりに使用した。
1948年に韓国政府が樹立され一時撤収した米軍は、1950年の韓国戦争が勃発するや再来し、この時、韓国政府から「軍作戦指揮権」を含め強大な権限を付与された。休戦協定が締結された1953年以後にも、米軍は韓米相互防衛条約にしたがって駐屯しながら、1967年の韓米行政協定発効直前まで米軍基地に関する韓米間の条約が無いことを悪用し、個人私有地など膨大な土地を思いのまま収容して米軍供与地を拡張させた。
米軍は韓米駐屯軍地位協定が締結されることで、1967年協定が発効する時まで、米軍が使用していた膨大な規模の基地に対する検討と新しい契約が必要であったが、この条項は1967年以前に使用していたすべての米軍基地に対する米軍の使用権を「遡及」認定してしまった。すなわち、米軍が1945年に占領軍として38度線以南に進駐して以来、日本軍の武装解除過程で無償で接収したすべての基地と施設、韓国戦争渦中で極度に不平等に締結された大田協定、マイヤー協定によって、1966年に韓米駐屯軍地位協定が締結される時までの13年間に徴発したすべての米軍基地と施設に対する使用権が、別途の「協議手続き無く」認定されてしまったのだ。
駐韓米軍供与地現況(出処:’94〜’95年国防白書)
区 分
面積(単位:万平方メートル)
国有地(国防部所有)
7,227(27%)
民.共有地
19,335(73%)
計
26,562(100%)
※1994年末現在、駐韓米軍に供与された土地現況は総96カ所で2億6,500平方メートル
集中探求2
米軍供与地の実態と問題点
青天の霹靂、「米軍供与地」
【事例1】先祖代々住んだ土地から、ある日突然追い出された農民達
さる3月15日、東豆川市クァンアム洞セモク村に、米軍が射撃場を作るといって、先祖代々住んできた土地にタンクを配置して…土地台帳にも明らかに農民の所有として記録されているのに、無条件に村を出て行けとは? 理由というのが、米軍供与地であるために米軍に使用権があるということだった。しかし農民達は、政府や誰からも自分の土地が米軍供与地だという話を聞いたこともなく、米軍供与地が何なのかも知らなかった。国防部はこれについて何らの解明や補償も無しに、4月23日付けで東豆川市に公文を送りセモク村を含めた近隣6,400坪を急いで撤去せよという指示を下ろした。
【事例2】適法な建築許可を受けたが「米軍供与地」なので撤去せよ!
国際ケミカル(代表:イ・シニョン)は、皮革加工工場を作るために東豆川市の建築許可を受け、東豆川市の米軍第2師団近隣に95年3月完成予定で工場を建築した。70%以上の工程が進行した状態で、95年2月に突然、国防部から建物撤去指示が降りてきた。国防部の説明は「米軍供与地」なので米軍当局に使用権があり、米軍側から撤去を要求してきたためだというものだった。
国際ケミカルは、1年余の間工事が中断されることによって外国のバイヤー達との契約が破棄され、中国の第2工場建設契約が不履行になり、技術者達が他の工場に移るなどの莫大な被害を負った。これが政府の中小企業支援政策なのか? 最近、国際ケミカル側は、窮余の策として、工場を生かすのため国防部などあらゆるところに駆けずり回った結果、『何時でも米軍当局が要求すれば即刻工場稼働を中断して撤収する』という覚書を書いてやっと工場建設を進めることが出来ることになった。しかし、国防部が96年4月23日付けで東豆川市に再度撤去を要請しており、その処理が注目されている。
【事例3】米軍の電線のためにいびつになった建物
東豆川市センヨン洞の土地所有者が95年6月、3階立ての建物を建てるため東豆川市の許可を受けて建物を立てていたが、ある日急に撤去命令が下りた。突然の撤去命令に驚いた建物主がその理由を調べたところ、やはり「米軍供与地」。建築敷地の上に米軍部隊に通じる高圧動力線が通っているという理由で米軍が抗議するや、95年9月に建物撤去命令が下されたのだった。
結局、建物主は窮余の策として、元来の設計とは違い高圧動力線が通っている部分は2階建てに変更、いびつな建物になってしまった。この文章を読む皆さんは、将来家や土地を買う時は、その上に米軍の電線が通っていないかまず調べなければ私有財産権行使に支障が出るでしょう。
米軍供与地とは?
「米軍供与地」とは、駐韓米軍が韓国に駐屯する上で、基地、施設、軍事訓練などのために必要な土地を、韓国政府が米軍に譲渡し米軍が使用権を持っている土地をいう。米軍供与地には、米軍基地と施設を含めて米軍の軍事訓練のために確保した土地などが含まれ、米軍供与地は次に見るように大きく三つに区分される。
- 専用供与地:米軍が排他的使用権を持って使用している土地
(例:米軍基地、訓練場、その他の施設など)- 地域供与地:元来の土地使用用途に支障が無い範囲で、米軍が使用権を行使する土地で、一種のグリーンベルト概念
(例:米軍の射撃訓練場安全地帯、米軍送油管、水道管、電線及びその他施設を保護目的に確保する土地)- 臨時供与地:軍事訓練などのため臨時に米軍に使用権を与える土地
米軍供与地、何が問題なのか?
米軍供与地が深刻な問題として提起されるのは、東豆川セモク村の住民達がそうであったように、相当部分が厳然として国民が土地所有権を持っている私有財産であるということだ。すなわち、国民の私有財産に対して、自分も知らない間に韓米両国政府が韓米行政協定を通して米軍に使用権を付与したのだ。すなわち、国民の私有財産権を保障している国内法と米軍の使用権を保障している韓米行政協定(SOFA)が相互対立、衝突しているのだ。
憲法第23条の「財産権保護」条項は、国家が公共の必要によって個人私有地を徴発する場合、適法な法律手続きを経て正当な補償を通してのみ可能になるように規定している。しかし、個人私有地が米軍供与地として譲渡されたケースの相当数は、1)適法な法律手続きを経ないのは勿論、2)所有主に対して何らの賠償もせず、甚だしくは3)土地の所有主と該当官庁が供与自体をまったく知らないでいる。
次から米軍供与地の問題点を具体的に調べてみよう。
1.国民の基本権である私有財産権を深刻に侵害している。
国民の私有財産権はどのような理由でも侵害されることない基本権だ。現行の徴発法もこのような主旨を活かし、国家が個人の私有財産を徴発する場合にも国家安保上の緊急な状況などによってだけ、それも徴発をする場合には私有財産に対する損害賠償をするようにしている。
ところが、現在問題になっている東豆川のセモク村の場合、さる1967年の韓米行政協定発効当時に米軍供与地として譲渡され、対象住民達に対する通告や事前協議は一切無く、そして補償金をまったく与えず、住民が知らない間に土地の使用権を米軍に渡したのだ。ましてや、当時の状況が国家安保上の緊急な状況だったのかに対しても疑問だ。
韓国政府のこのような行為は明白な「不法」であり「基本権侵害」だ。
2.国民生活に莫大な不便を及ぼしており、発展が妨げられている。
東豆川市の場合、市全体面積の51%である約1,500万坪(米軍基地は250万坪)が米軍供与地のため、住民の生活地盤の相当数が米軍供与地として縛られているのだ。これによって正常な都市発展は勿論、私有地に対する建築と施設保修などでも莫大な支障を与えている。市の公式的な建築許可を受けて工場を建設していても、米軍側が抗議すれば工事を中断して撤去せねばならず、米軍の電線を保護するために建物が元来の設計とは違い奇形的に作られるケースなどが一つや二つでないのが実状だ。
ところが、いっそう深刻な問題は米軍基地以外の米軍供与地が果たして東豆川にのみ存在するのかということだ。米軍基地が東豆川をはじめ、ソウル、大田、大邱、釜山、広州、原州、春川など全国96の地域に存在することを見るとき、全国的に米軍供与地の規模は途方もないものと推算される。したがって、米軍供与地問題は決して東豆川のみ限られた問題ではない。
3.米軍供与地の実態が公開されないでいる。
東豆川で米軍供与地の実態が公開されたのも、95年の国際ケミカル工場建設と96年のセモク村の米8軍射撃場拡張計画などを通した最近になってだ。東豆川市の場合、最近まで米軍供与地の面積、分布、位置、甚だしくは米軍供与地の概念も判らずにいたのが、先の事件を通して国防部に問いただした後、やっと事実を確認することになったのだ。すなわち、米軍供与地の主務部署である国防部が、数十年の間住民の土地が米軍に供与された事実を明らかにしなかったのだ。
したがって、現在全国的にどれほどの米軍供与地があるのか、そしてその具体的な分布と位置がどうなるのか知らされずにいる。国防部では軍事機密という理由でその実態を公開しないでいるが、国民が自分達の土地が米軍の供与地なのかどうか確認できないということは、私有財産を保護するための最小限の自究策準備と国民の知る権利を無視した行政便宜主義以外の何物でもない。東豆川セモク村のように、ある日突然米軍が『米軍供与地だから出て行け!』と言えば、どうしようもなくやられるしかないのが我々国民だ。
4.不平等な韓米行政協定(SOFA)から始まる問題だ。
駐韓米軍が、米軍基地を含め米軍供与地を使用できる法的根拠は韓米行政協定だ。韓米行政協定は第2条、第4条など、いわゆる「施設と区域」に関連した条項によって米軍基地と施設に対する供与問題を規定しているが、その源泉的な不平等性が米軍供与地問題を誘発させた。現在、大部分の米軍供与地は、1967年の韓米行政協定によって米軍側に使用権が渡ったものだ。駐韓米軍は、韓米行政協定が締結されるにともなって、1967年に協定が発効されるまで米軍が使用していた膨大な規模の基地に対する検討と新しい契約が必要だったが、韓米行政協定第2条は、1967年以前に使用していたすべての米軍基地に対する米軍の使用権を「遡及」認定してしまった。
韓米行政協定第2条1.(ロ)の規定は、協定第2条1項(イ)によって米軍が基地を使用するにうえで、「韓米間の協議を通して行う」という規定を有名無実にしてしまったのだ。