【読書案内】
中野重治と朝鮮 (鄭勝云、新幹社、2000円+税)
帝国主義本国の文学者が、帝国が支配する植民地の民族や、ましてやある個人を、〈対等な他者〉、同志・友人として作品に登場させるのは、実は稀有(けう)なことである。
文化は、帝国主義―植民地主義支配に先行して、被支配民族を「劣った、遅れた」民族として描き出すことで、帝国の侵略支配を正当化する。日本帝国主義時代の朝鮮にまつわる言説は、まさにそれだった。いや、いまのいま、イラク−アラブ−イスラムに向けられた米国の、そして、北朝鮮に向けられた日本の言説のほとんどは、「文化と帝国主義」の関係そのものではないか。
中野重治は、戦前にたとえ転向を表明したとしても、「文化と帝国主義」の関係から自由であろうとし、それを追求し続け、作品に結実させた、稀有の文学者だった。なぜそうあることができたのだろうか。
本書はこの問いに対して、中野が一九二九年二月の『改造』に発表した詩「雨の降る品川駅」を題材として、「〈事実調査〉を重視し、書誌学的な研究」方法で読み解き、新解釈の提出をも含む、豊かな観点を提出した労作である。
「雨の降る品川駅」は、昭和天皇の即位式を前に、朝鮮人の革命家が「不逞(てい)鮮人」として祖国へ追放される情景を、万感の思いを込めて見送る中野がうたいあげた、美しい詩である。だが、初出は伏字だらけで、二年後に詩集に収められるときに改稿され、ほぼ定稿化された。その経緯は本書に詳しい。
ところが、原詩をそのまま朝鮮語訳したものが一九七五年に発見され、それを反訳した全文が発表された。そこには天皇に対するテロリズム的内容があり、天皇暗殺を中野が朝鮮人に期待した、「対等な立場での共同闘争」ではない、「朝鮮人を盾にした民族的エゴイズム」との批判がなされた。晩年の中野は、その批判を受け入れさえしたのである。
だがそれには、「事実と違うところがあった。……反訳によって起きた影響を再考察し、より正しくより深く」この詩を読んだこと、これが本書を白眉(び)のものにしているゆえんだ。その要約をここでは書かない。本書を手に取られることを願う。それ以外にも、中野の妹中野鈴子と、転向して親日文学者となった金龍済との恋愛への言及など、朝鮮と日本を考える豊富な題材にあふれているからだ。
ただ、本書が作品として成熟しているかといえば、書誌学的な引用の分量に比して、著者の記述の少なさなど紀要論文的すぎ、今後の課題は大きいだろう。著者自身の言葉にあふれた次作を期待したい。(英)