【参加記】統一こそが真の慰霊/犠牲の兄の名碑に三拝
済州4・3民衆抗争慰霊祭に参加して
李 鐵(韓統連大阪本部代表委員)
わたしは、二日から四日にかけて、「済州四・三事件六十周年慰霊祭」に韓統連訪問団の団長として済州島を訪問してきました。
済州島四・三民衆抗争(四・三抗争)とは、次のようなものでした。六十年前の一九四八年四月三日、済州島で人びとが武器を持って起ちあがり、警察や右翼団体を一斉に襲撃しました。日常的に繰り返されていた島民に対する警察の暴力弾圧と右翼団体による残忍なテロ行為への報復攻撃でもありましたが、五月に予定されていた米軍政下にある朝鮮半島の南側地域だけの選挙に反対することが主目的でした。単独選挙は朝鮮半島の分断を意味していました。済州島民衆の闘いは、分断に反対し、祖国の真の解放、統一祖国の実現を求めた民族的な大義の闘いでした。
しかし、この闘いは、米軍と独裁者たちによって、「アカ(社会主義者)による反国家的暴動」とわい曲され、すさまじい報復がおこなわれたのです。当時の島民の十分の一以上にあたる推定二万五千人から三万人(真相調査委員会)もの犠牲者を出しました。
さらに遺族を苦しめたのは、歴代の独裁政権、国軍当局の圧力により、長くその真相を語ることが許されなかったことです。ほとんどすべての島民の家族や親族に犠牲者がいたにもかかわらず、多くの人びとは後難を恐れ、無念の思いを心にしまいこんで口をつぐんで暮らさねばならなかったのです。犠牲を強いられ告発すらできない島の歴史は、半世紀を超えてハン(恨)を晴らせないまま続いていました。
わたしたち代表団は、「済州四・三民衆抗争六十周年精神継承共同行動」を構成する済州統一青年会の青年らの案内で、四・三抗争の遺跡地を巡礼しました。
済州島に到着した二日、わたしたちは真っ先に四・三平和公園内の慰霊祭壇を参拝しました。ここには一万五千余人の犠牲者の名を刻んだ名碑が収められています。わたしの兄の名碑もあります。わたしは万感の思いを込めて、兄の名碑に向かってクンジョル(三拝)をしました。続いて、同公園内の平和記念館を見学しました。そこには済州国際空港内の犠牲者の遺骨を発掘する現場の写真が展示されており、大きな衝撃を受けました。多くの人がこの島に第一歩をしるす空港の滑走路の下に、いまも数多くの遺骨が埋まっており、歴史の闇に光があたるのを待っているのです。
翌日、同じ場所で行われた慰霊祭に参加しました。晴天に恵まれ慰霊祭壇の後ろに、残雪をいただく漢拏山が美しい姿を見せていました。六十年前の四月三日、あの山はどのように見えたのかと考え、複雑な思いでした。金泰煥道知事は主催者あいさつで「四・三」を国家記念日に指定することを求め、真相のわい曲をやめるよう訴えました。それは、李明博大統領が参加せず、政府代表の韓昇洙首相の追悼辞がとおりいっぺんのものだったことと好対照でした。金ドゥヨン・遺族会会長は、極右勢力によるこれ以上の真相わい曲を許さないとし、「そのときは遺族会として断固たる措置をとる」と、済州島民の意思を代弁しました。新政権が発足して「四・三特別法」の廃止を企図し、四・三抗争の真相をわい曲する動きが目立っています。いまだ犠牲者の遺骨発掘作業も終っていないのに真相を隠ぺいしようとする動きに怒りを覚えました。「四・三抗争」は、いまだ終らぬ闘いであり、それは六・一五と十・四共同宣言で朝鮮半島の自主的平和統一を実現するなかでこそ、真相が解明され犠牲者の霊を弔うことができるのだとの思いを新たにしました。
島民が犠牲になったオルム(噴火口跡)やクル(洞窟)、そして虐殺現場となった小学校の校庭などを見学しましたが、いずれも遺跡と表現するにはあまりにも生なましい場所でした。頭をたれて祈りながら、討伐隊に追われて最後を迎えた避難民の恐怖はいかばかりかと、胸が締めつけられ続けたのでした。
すべての日程を終え、真心のこもった案内をしてくれた青年たちと惜別のあいさつを交わし、帰阪する飛行機に身をゆだねました。滑走路の下に眠る犠牲者の痛みに思いをはせました。
大阪の自宅に戻ったわたしは、一九九五年八月、白頭山の頂上から持ち帰った角張った石と、今回済州島の海岸で拾った丸い石を並べて、携帯電話のカメラに収めました。