【インタビュー】済州島4・3民衆抗争60周年特集 第2回
東京の40周年集会が転機に/反米・統一運動へと発展を
4・3事件を考える会 高二三事務局長に聞く

―「済州島四・三事件を考える会(東京)」(考える会)は、韓国内で長い間タブーだった「済州四・三民衆抗争」の歴史の復活に大きく寄与しました。「考える会」の結成経緯と目的についてお話ください。また、その過程でもっとも苦労されたことはどんなことでしたか?
「済州島四・三事件を考える会は一九八八年、つまり済州島四・三事件四十周年の前年に結成されました。当時は、韓国で民主化運動が進んでいたとはいえ、会長の玄光洙先生、事務局長の金民柱先生に、韓国大使館から中止するよう圧力があったとも聞きました。個人のあいだでは済州島四・三事件は語り継がれてきましたが、まだ反共法、国家保安法に威力があった時代で、記念集会をおこなうのにも勇気がいりました。例えば、死ぬまで済州(故郷)には帰れない、という覚悟のような……」
「当初は四十周年記念事業を済州、ソウル、東京、大阪で同時におこなう予定でしたが、まず大阪が実行できないとギブ・アップしてきました。そして済州でもできませんでした。結局、東京とソウルだけで開くことができました。『四・三事件の傷が深い地域ほど、追悼集会を開くことがむずかしいのだな』と、その時思いました。済州でも四十一周年から開かれるようになりました。大阪がいちばん遅れて追悼集会をもつようになりました」
「東京での集会では五百人ほどが集まり、大きな転換点になったと思います。つまり、社会的に四・三事件を公の場に引き出したという点です。まったくのタブーだった四・三事件が公然と語られることにより、社会的にも歴史的にも息を吹き返した点を強調したいと思います」
「また、東京での成功が済州に伝わり、済州の人びとを鼓舞したと思います。四十一周年から済州大学を中心に、若い人たちが集会を開きましたし、後に済民日報『四・三は語る』となりましたが、その原型の『四・三の真実』が済州新聞で連載が始まりましたから。一度として打ち合わせをしたわけではありませんでしたが、暗黙の了解みたいなものがあって、強い連帯意識を感じました。実際、本国、済州と連携のための打ち合わせをするようになったのは、ずっと後になってのことです」
―「考える会」は具体的にどのような活動を展開されてこられましたか。また、韓国内との連携、共同事業などに関してもお話ください。
「四十五周年、五十周年、五十五周年などの節目の追悼集会を大きく開きましたが、毎年、小さくとも集会を持ち続けてきました。四・三事件の名前は知っていても、その歴史の内実はあまり知られていませんでしたから、学習をするという意味もありました」
「四十周年がはなばなしかったので、その後の四、五年が運動としてはつらかったと思います。大阪で集会を開いても集まらなくて……。でも、光州事件の真相究明、名誉回復のために全羅道の人びとがだれよりもがんばったと知って、四・三事件はだれよりも済州島の人ががんばらねば、と歯をくいしばりました。現在は他地域の出身者はもちろん、多くの日本人たちと運動をつくっていますので、隔世の感があります」
「これから本国で四・三事件をめぐる情況がどう変わるか、大きくは心配していません。これまでは、日本から国際世論を背景に、弾圧は許さないぞ、という気分でした。五十周年のころから、本国と共同歩調をとるようになりましたし、大規模に国内からゲストを招き、公演や講演会、セミナーを行ってきました。四十周年で東京は進歩的な役割を担いましたが、元来、四・三事件に関しては済州島が本流となるべきで、現在ではそうなっています。これからは日本だからできることに焦点をあてて活動を続けて行こうと思っています」
―今年は「済州四・三民衆抗争」の六十周年を迎える意義深い年ですが、「考える会」ではどのような活動を準備していますか。
「今年は六十周年、還暦の年ですね。実は昨年から月に一度くらいのペースで事前学習会をやってきました。一回目は三十人、二回目は六十人、3回目は七十人と、少しずつ参加者も増えてきて、例年になく関心が高いと感じています」
「済州島四・三事件を考える会が母体となって『済州島四・三事件六十周年記念事業実行委員会』を立ち上げました。今後の大きな行事としては、四月二日から四日にかけて、済州島で開かれる公式の追悼集会に日本から訪問団をつくって参加します。これは、わたしたちから済州島の実行委員会に要請して、初めて招待してもらうことになりました。済州島(道)で予算を組んだのですから、画期的なことだと思います」
「日本での行事は、四月十九日に大阪のクレオ大阪(問い合わせ先=〇六―六七五四―四三五六)、二十一日に東京の日暮里サニーホール(問い合わせ先=〇三―五六八九―四〇七〇)で、済州島からの民族芸術代表団による追悼公演を行います。もちろん、金石範先生の講演もあります。翌二十二日は、六十周年を記念するパーティを、東京上野の東天紅で開きます。来日公演された方がた、実行委員会の仲間たち、今まで四・三事件の真相究明・名誉回復のために尽力された研究者、ジャーナリスト、そして運動を支えて下さった方がたと夕べをともにしたいと考えています。そこで、これからの課題を見すえていきたいと思います。六月には『朝鮮現代史の中の済州島四・三事件』というシンポジウムを行いますし、以降も今年中は学習会を持続しようと考えています」
―韓国内では一部から「済州四・三特別法」を廃止せよとの声があがっています。これに対してどうお考えですか。
「済州島四・三事件に関していえば、金大中政権、盧武鉉政権の十年は大きな意味があったと思います。ご存知のように、この間、『四・三特別法』が施行され、『済州四・三真相調査報告書』が出されました。そして、それに基づいて盧武鉉大統領の済州島民に対する公式謝罪があり、四・三平和公園、四・三資料館などが国家事業として着工、建設が進みました。昨秋からは大量虐殺があったとされる場所で遺骸が発掘されております」
「これらは李承晩政権から続いている軍事独裁政治と決別するものでもありますが、具体的なかたちとして済州島ではこのように現れたといえます」
「李明博大統領の支持母体政党であるハンナラ党は、『済州四・三特別法廃止法案』を国会に上程しました。これは、思想的にはかつての軍事独裁政権を支えた思想的支柱と同質のものといわざるをえません。韓国での民主主義が成熟しているかどうかの試金石と言えるかも知れません。四月の国会議員選挙でハンナラ党が勝つかと思うとゾッとします。李明博大統領の良識、国際感覚、民主主義観、人権感覚が問われると思います」
―「済州四・三民衆抗争」の自主独立、統一の精神を継承し、真の解決を図っていくうえでわたしたちの課題はなんでしょうか。
「済州島四・三事件は、今までは真相究明、名誉回復運動を基本にしていたと思います。しかし、側面でいつも問われていたのが、統一運動としての四・三事件、反米運動としての四・三事件だったと思います」
「真相究明・名誉回復運動が終わったとは決して思いませんし、韓国の政局によっては予断を許さないと思います。しかし、これからの四・三事件は統一運動として、反米運動として、運動の基本の転換が望まれるのではないかと思います」
「四・三事件はその名の通り、四月に眼がいきますが、実際に大量虐殺が行われたのは一九四八年の十一月から翌年の二月くらいにかけてです。おそらく一万五千人から二万人の島民が犠牲になったと思われます。この時期は、すでに南北に政府が樹立されていて、朝鮮半島は本格的な分断体制に入っていた時期です。その分断体制の成立のスケープゴートとされたのが、これらの人びとであったというわけです」
「集団的な大量虐殺で死にゆく島民たちの絶望を思った時、いまだに統一朝鮮を実現できず、アメリカからの謝罪もえられないままで、犠牲者たちと、生きているわたしたちはどう、向き合えばよいのでしょうか?」
「もちろん、『四・三特別法』で実現された事業の数かずは大きな前進ですが、それで『四・三事件』は終わらないのではないかと考えます。一九四八年の分断時代の始まりと六十年後の現在、なにが変わって、なにが変わっていないのか。その変わっていないことが、『四・三事件』が終わっていないことの証(あかし)であり、課題です。それは、分断が克服されていないということであり、アメリカ軍が居座り続けている、ということの意味なのではないでしょうか」
―ありがとうございました。