【インタビュー】済州島4・3民衆抗争60周年特集 第1回
分断に反対して決起の民衆抗争/警察暴力と右翼青年団への反撃
「記憶の自殺」から「記憶の復活」へ/歴史を正しく立て直すことが統一
作家 金石範氏に聞く
済州4・3の背景とは
「済州島四・三民衆抗争六十周年特集」の第一回として、済州島四・三民衆抗争を描いた一万一千万枚の大作『火山島』(全七巻、文芸春秋)の著者であり、「済州四・三」の復権に尽力した作家の金石範氏に、「民衆抗争の意義と精神の継承」について語ってもらった。金氏は一九二五年、済州島出身の両親のもと大阪で生まれた。十四歳のとき、物心ついてからはじめて済州島へ渡って数か月を過ごした。大阪へ戻り、済州島が故郷だとの意識を強くし、「小さな民族主義者」に変わっていった。四五年三月下旬、中国・重慶への亡命を胸に秘めて、済州島で徴兵検査を受けるとの口実でソウルへ。四月初めに済州島で本名のまま徴兵検査を受け、第二種乙種合格。ソウルをへて六月下旬、大阪へ戻る。八月の解放を東京で迎え、十一月に新生祖国建設に参加するためソウルへ渡る。ソウルで左翼陣営の信託統治反対、やがて賛成デモに連日参加するなど、激動を体験。四六年夏、大阪へ密航。以来、八八年十一月まで四十四年間、故国の土を踏まなかった。金氏の実質的な処女作「鴉の死」(『文芸首都』一九五八年十二月号)は、「済州島四・三」を文学的に昇華した最初の作品。それ以後の文学活動の歳月そのものが、「済州島四・三民衆抗争」の解明と小説化のためのそれであり、祖国統一への希求を文学的に表現するための歳月だった(磯貝治良氏の評論より)といえる。インタビューは二月九日、民族時報社で金知栄論説委員が行った。文責は本紙にある。
―今年は済州島四・三民衆抗争六十周年を迎えます。南側だけの単独選挙に反対して、統一国家の樹立に立ち上がった「済州四・三」の歴史を胸にきざんで、その精神を継承することがいまを生きるわたしたちの課題だと考えます。大河小説『火山島』『鴉の死』など、作家生活のすべてを「済州四・三」をテーマにした作品で、記憶のなかに埋葬されていた痛苦の歴史の再生と復活のために、先駆的な役割を果たしてこられた先生に尊敬の意を表わしながら、お話をうかがおうと思います。まず、済州島四・三民衆抗争はどうして起こったのか、その原因についてお話いただけますか。
「要点だけをお話しすると、済州四・三事件だけでなく、解放後に南側で起きた民衆抗争は、米国の南朝鮮支配に原因があります。解放直後の一九四五年十二月、モスクワ三相会談が開かれて、朝鮮に臨時政府を樹立し、五年間の信託統治をすることに合意します。これにともない一九四六年三月、第一次米ソ共同委員会が開かれたが決裂し、翌年五月に再開しながら、これもまた破綻します。これによって一九四八年、朝鮮問題が国連総会にもちこまれて総選挙が決議されますが、北側がこれを拒否します。米国はこれを口実にして朝鮮委員会を送り込み、五・一〇単独選挙実施を主張します。これが具体的な始まりです」
「朝鮮民族の総意に反し、モスクワ三相会談の精神にも反する単独政府を南側に樹立して、南北を永遠に分断させる選挙に反対するのは当然のことではありませんか。それで祖国統一のために絶対に単独選挙は許さないと反対に立ちあがったのです。済州島だけでなく、北と南でもさまざまな反対闘争が展開されたではありませんか」
「もうひとつは、これは済州島内の大きな要因ですが、一九四七年三月一日、三・一独立運動二十八周年記念式典がありました。三・一精神を受け継いで、独立国家を樹立しようという式典が現在の済州市の北小学校で開かれ、全島から約三万人が集まりました。式典を終えてデモ行進に移ると、米軍と警察が発砲する事件が起きて六人が死亡しました。それを契機に済州島の米軍政庁職員さえもふくむゼネストが起きました。そのとき全島的な反米闘争、李承晩体制反対闘争が起こり、警察側の立場で弾圧する部隊として李承晩が西北青年団をそこに投入します。西北青年団とは、北側から三十八度線を越えてきた者らが四六年十二月、ソウルで組織した反共青年団で、本当に悪らつなことをした連中です。日本帝国主義(日帝)下の警察官や反共思想のために、社会主義体制の北側で生活できずに南下してきた彼らが五、六百人も済州島に入ってきて先ぽう隊になり、『アカ勢力』を打ち殺せと叫びながら民衆運動を弾圧します。米軍政に反対し、警察に反対するのも『アカ』だとして弾圧するのです。生半可な暴行ではありません」
「もともと済州は島のせいで排他的な意識がありましたし、一方で進歩的な勢力の力が強かったのです。解放直後に日本で社会主義運動をしたり、学校に通っていたりしたインテリ層が多く島に戻り、他の地方よりも社会主義的で先進的な性格が強い島でした。それまでは米軍と人民委員会は、そんなに悪い関係ではありませんでした。三・一独立運動二十八周年を契機に米国側も全面的な弾圧政策に乗り出しました」
「四・三ほう起の原因は外部的なものと内部的なものの二種類だったといえます。祖国を分断させてはならないということと、警察権力と民間の右翼暴力団である西北青年団に対する反発ですね。それで済州四・三がさく烈したのです。その意味において、済州島四・三民衆抗争は、解放後の民族分裂を防ぐために起こった最初の闘争です。済州島での四・三闘争が失敗に帰することで、南側のすべての運動が失敗に帰したではありませんか。それによって半世紀の間、南側では独裁のもとで人々は生きなければならなかったのです」
犠牲者復権への道のり
―昨年十一月、先生は済州島チョントゥル飛行場(現在の済州国際空港)の四・三集団虐殺被害者の遺体発掘現場で犠牲者らの遺体を目撃され、当時のせい惨な状況に思いをはせられました。
「その当時、軍政庁警察部長の趙炳玉がいい放った言葉があります。済州島民を根絶やしにしなければならないということですよ。『空から飛行機でガソリンをまいて、三十万島民を焼き殺してしまえ。済州島の三十万人がいなくても大韓民国はなにも困らない』とわめいたんです。その当時は、日本にいたわたしたちに具体的な消息は伝わってきませんでした。四八年の虐殺当時、済州というのは密封された島、閉ざされた島であって、開かれた島ではありませんでした。一九八〇年の光州事件―民主化運動のようにテレビを通じて世界に広く知られるような時代ではなかったし、何もわからなかったのです」
「二〇〇〇年八月に韓国の国務総理直属で『済州四・三事件の真相究明と犠牲者の名誉回復委員会』が組織されて、そのもとに『済州四・三事件真相調査報告書作成委員会』が置かれました。その調査団が三年間調査をした結果、二万五千人ないし三万人が虐殺されたといいます。そして、討伐隊に虐殺された人びとが八六・一%、武装隊、いわゆる山部隊(サンブデ)によって一三・九%犠牲になったということです。まだ十分に明らかになっていない犠牲者も相当数います」
「閉鎖された島で起こったことなので、世間に知れらていないのです。そのせいで、虐殺という事実が、いうなれば、解放後の南側の歴史でなかったことにされてしまった。四・三事件自体がないものなのです。完全に歴史が埋葬されまった。ところがその後、数年して教科書に少し出てくるようになると、共匪(コンビ)―アカによる暴動ということなっている。暴徒による暴動。いまも済州島に行くと、老人たちは『暴徒』という人が多いのです。わたしの従兄弟が『お兄さん、その当時暴徒が……』と、こんなふうに話します。一度頭に刻み込まれた考えや言葉を引き抜くのは、とても難しいことです。かつて南側では、北側の人びとの頭に角があると教育しませんでしたか。これは笑い話ではなく、本当の話です。そのような形で教育をしたんです」
「わたしはこう表現します。さきほど、四・三の歴史は南側の歴史に埋葬され、なかったことにされていると言いましたが、歴史が闇(やみ)のなかに埋葬されるということは、人の記憶を抹殺することです。一九八〇年代にフランスで問題になったことですが、それはアウシュビッツがなかったというものです。そのような言説があらわれたではないですか。アウシュビッツの存在を否定する。あるいは、存在はしていたが、アウシュビッツは戦後にいわれたような大規模なものではなかったといってナチスの虐殺を否定する、そのような論争は別の意味で歴史修正主義ですね。ドイツ問題だけれども、主にフランスで論争が展開されましたが、そのときのユダヤ人歴史学者が『記憶の暗殺』という表現を使っています。記憶の暗殺とは、過去の歴史をなくすということ、言葉で記憶の暗殺するときのものですが、済州島の場合は記憶の抹殺です」
「記憶の抹殺とは、権力が、四・三事件があったということを認めないということ、あったにもかかわらず歴史のうえではそれを消してしまうということです。権力による記憶の抹殺ということは、つまり記憶の他殺です。外から記憶を殺してしまうということです。一方、島民自らが四・三事件を記憶するのが苦しくて、苦しいというよりも聞くこともできず、弾圧され、被害にあったけれどそれを話すこともできず、自分の目で見たことも、見たことにできない。そのため完全に外部との相互交通が閉鎖される。すると、思い出すことが苦痛でしかなくなる。記憶していることが苦痛なのです。だからその記憶を自ら消す。消すしかない。わたしはこれを〈記憶の自殺〉と呼ぶのです」
「済州島の場合、記憶の抹殺が半世紀以上も持続するのですが、そこには連座制が大きな役割を果たしました。当時、『アカ』だとレッテルを貼られて死んだ人びとの親戚は、みんな連座制にかかりました。記憶は人間の存在条件です。記憶がなくなれば人であることはできません。もちろん色々な病気で記憶を喪失する場合もあります。しかし、何の罪もない人の記憶がなくなるということは、沈黙に入るということです。言うべきことも言えず、被害を受けたことも、されたその通りに哀訴することもできず。心の内へ内へと、地の底へ底へと、記憶を自ら埋めていく。そうして無意識になります。ついには忘却、すべて忘れます。完全に忘れる。限りなく死に近い忘却。肉体的には死んではいないけれど、死に等しい忘却。忘却というのは、記憶がなくなるということではありませんか」
「つまり、忘れてしまわなければ、自分の記憶を自ら殺さなければ、耐えられないのです。自分を防御するためにも、記憶を自分自身でなくさなければならないのです。記憶の回路を切らなければなりません。どうやって、そんな苦痛に満ちた記憶を抱えて生きていけますか?殺してようやく存在できるのです。しかし、殺してしまった記憶というのは、すべて埋めてしまうことはできないものです。これを解かなければ、あるときトラウマとなって表に出てきます。何年後かに精神障害を起こすとか、いろんな形で噴き出してくるのです。記憶を一時的に殺したとしても、永遠に殺すことはできません」
「ですから、地下で凍りついた記憶を地上に引き上げ、溶かさなければなりません。わたしが四・三事件に関する小説を書く目的が、まさにここにあるんです。地中に埋まっている殺された記憶を、明るい陽光のもとへ導くのです。『海の底から、地の底から』(講談社刊)というわたしの作品がありますが、そのように地中に埋もれ、海の沈んだものを引き上げなければなりません」
埋められた記憶の発掘
―『火山島』は「歴史の意志の表出」であり、「記憶の勝利」であり、「生きている者らによる忘却からの脱出」とおっしゃったのと相通じますね。
「そうです。人として生きてこられなかった、人間の条件を欠いて済州島民らが生きてきたということです。フランスの映画監督ランズマンが一九八五年に制作した『ショアー』(SHOAH)という映画がありますが、その映画の主題は記憶です。九時間半にもなる長い映画ですが、それはナチスの迫害から生き残ったユダヤ人たちの証言です。思い出せなければ、話せないじゃないですか。映画に出てきた人たちは幸いにも生き残った人びとで、ガス室で殺された同胞を埋葬する作業に従事した人もいましたが、あまりに長い間記憶を閉じ込めていくと、これが内部からあふれ出て、その人をおかしくしてしまうものです。済州島の場合は、アウシュビッツと規模は違います。規模は違っても、やられたことは非常に似かよっている。済州島の場合は、かつて強固な村落共同体を形づくっていました。近所の人びとや親戚、自身が受けた迫害を、いつか外部に話をすれば、その恨(ハン)は解けるものです。四・三当時に受けた迫害の恨(ハン)を晴らす手段がクッ(祭祀)で、神房(シンバン)や巫女がするクッで間接的に死者の声を聞くという方法で表現するひとつの手段でした」
―先生が『国境を越えるもの―「在日」の文学と政治』(文芸春秋刊)で書かれていましたが、「済州四・三」は話すことさえタブーであり、記憶を埋めておかなければなりませんでした。日本で在日同胞らが「済州島四・三事件を考える会」をつくり、一九八八年にソウルと東京で「四・三事件四十周年記念集会」を開いて、初めて公にこの問題を提起したといえるでしょう。在日同胞が済州島四・三民衆抗争の歴史を復活させることに大きな役割を果たしたといえるのではないでしょうか。
「そうですね。 しかし、大きくは韓国の民主化運動の流れのなかで契機が与えられたのです。日本の人びとの力も大きいです。そして韓国からの留学生たちの力も大きかったのです。当時、『四・三を考える会』の会長に韓国の国家安全企画部(NSP、現在の国家情報院)がどれほど圧迫したか。彼らにとって、とんでもないことだったのです。記念集会を開かせないようにしなければならない。しかし、わたしたちは、東京で朝から集会を開き、ソウルでは汝矣島の女性百人会館で午後から『近代歴史発表会』との名称で、同時に『済州四・三事件四十周年集会』を開きました。在日同胞は、国なき状態で生きてきたので、国なき愛国心があり、事実、愛国者でした。日本に済州島出身の人びとが多く暮らしていますが、四・三で弾圧・迫害を受けた人たちは語りたくないのです。しかし、苦しいのです。『済州四・三』は本当に孤独な闘争でした」
4・3精神の継承とは
―遅きに失した感がありますが、韓国政府が二〇〇〇年に「四・三特別法」を制定し、二〇〇三年に盧武鉉大統領が、過去の国家権力の誤りについて、公式謝罪しました。わたしたち生き残った者らが四・三精神を継承して、統一を志向するうえで済州島四・三民衆抗争抗争をどのように位置づけるべきでしょうか。
「四・三抗争と光州民主化運動の抗争精神は基本的には同じものではありませんか。光州は一九八〇年に起こったため、部分的にはその歴史と真実が隠されましたが、やがてほとんどすべてが明らかになりました。四・三の場合には、半世紀以上もの間、歴史が完全に隠されていたのです。済州四・三はいまだに解放されていないのです。漢拏山の頂上にある白鹿潭(火口湖)の北壁に『漢拏山開放平和記念碑』が立てられていますが、一九五五年当時の済州島警察局長のシン・サンムクを称賛する内容です。討伐隊が武装隊を完全に討伐したという記念碑なんです。本当に情ないですね
「『四・三平和公園』の慰霊堂の大理石の壁に、約一万三千人の犠牲者の名前が刻まれた位牌が置かれています。そこには、当時の武装ゲリラ隊の李徳九隊長と彼の親族の位牌は安置されていないのです。彼らの位牌がないということは、四・三慰霊堂から排除するということですが、彼らの存在はいかなるものなのか?戦術上の誤りがあったとしても、基本的には正当な闘いをした人びとです。彼は愛国者なのに、権力が彼を愛国者と言えなくさせている。歴史を正しく立て直すという観点に立たなければなりません。済州島の場合、正しく立て直すどころか、うそだけで歴史をつくりました」
「四・三の場合、済州島の人びとが当事者なので、彼らが主導すべきですが、それは民主主義、民主化の流れのなかで実現できるものです。そうしてこそ普遍的なものになります。チョントゥル飛行場にも、まだ発掘されていない場所がいくらでもあるんです。さまざまな問題がそのまま残っています。済州四・三は解明の途上にあるのです。四・三の歴史が正しく復活されなければなりません」
「最近、ハンナラ党が親日問題真相究明委員会と済州四・三事件真相究明および犠牲者名誉回復に関する特別法(四・三特別法)に明示された『四・三委員会』を廃止しようという動きをしていますが、それは話になりません。済州だけではなく、過去に民衆虐殺がほしいままにされた事件の真相究明が行われず、そのままになっています。すべての真相究明をしなければなりません」
「統一するといいますが、何のために統一するんですか。わたしたちの自由、人権のためです。祖国統一とは、人間の尊厳がその基本ではありませんか。わが国、わが民族同士で、偏狭なナショナリズムになるのではなく、民族同士自由によい暮らしをしようということですね。 祖国統一とは宙に浮いているものではなく、具体的に、いま目前に迫るさまざまな矛盾を除去することなんです。わたしたちが祖国統一の立場に立つなら、この問題はどういう問題なのか。四・三をはじめ、民衆虐殺の歴史を直視し、それを解決して歴史を正しく打ち立てて行くことが祖国統一ですね。済州四・三がいまだに解決できていない問題は人権問題です。 民主主義とは人権です。人権を、人間の尊厳を保障することが民主主義です」
「今年の済州四・三抗争六十周年行事に参加していろいろ討論してみてください。これは政権側ではまだできないことです。常にわたしたちが肥料をあたえなければなりません。 済州島にいる人は、たやすく言いだせないのです。過去にチョントゥル飛行場の下に埋まっている遺骨を掘り出そうとは、だれも言うことができませんでした。わたしが最初に言い出した者のひとりです。一九八八年に韓国へ行ったとき、ハンギョレ新聞のインタビューで、済州四・三事件をみんなが暴動・暴徒というが、どうして暴動で暴徒なのか。四・三も光州と同じように義挙だと話しました。現地では言いたくても言えないじゃないですか。 そのまま記憶を完全に殺してしまうのです」
「限りなく死に近い忘却、死に近いが、まだ死んではいないという、死に近いがまだ生に続く最後の瞬間があります。土の中で待っているのです。チョントゥル飛行場の発掘現場で、それを救い出すのを見ました。完全な姿で遺体が発掘されました」
「これが記憶です。 記憶というのは、わたしが直接に弾圧された、虐殺されたのではなくても、伝染して伝えられるのです。そうして四・三当時、そこにいたのではないけれど、六十年後にわたしが飛行場で、四・三犠牲者の遺骸たちを初めて見たことが、わたしにとって初めての四・三体験だったのです。歴史は抹殺しても、記憶は抹殺できません。四・三とは、記憶の勝利ということです。歴史の勝利ではありません。記憶をそのまま諦め、殺してしまえば歴史もなくなります。歴史はないのに残っている。それは何か。人びとの記憶です。死に近い忘却とは、死に限りなく近い記憶、記憶と忘却は紙一重です。ところがそれが復活しました。生き残った人びとがそこで解放されたのです」
―韓統連は四月六日、大阪で「済州四・三民衆抗争六十周の年集い」を開きますし、済州島で開かれる六十年行事に参加します。そのとき済州島でまた先生にお会いできるのを楽しみにしております。長時間のインタビューありがとうございます。