【講演要旨】反外勢自主化の闘争であり、韓国史上最初の統一運動
済州4・3民衆抗争の現代的意義
呉承国(済州4・3研究所理事)
済州道で開催した韓統連研修会の初日、呉承国・済州四・三研究所理事が行った講演、「四・三民衆抗争の現代的意義」を要約して紹介する。文責は編集局にある。
済州島の現代史、その現代史を残酷に闘い続けた四・三民衆抗争と、それにともなう済州島の苦難について講演していこうと思う。
朝鮮時代末期に済州島では数多くの民乱――民衆蜂起が起こったが、それの主な原因は封建領主の過酷な収奪に対する反封建闘争であり、同時に反外勢闘争だった。済州島の民乱は、中央政府から見れば逆賊だが、済州島民にとっては中央政府こそが共同体を踏みにじる外部勢力だ。島民らはこれに対して団結して闘ってきた歴史を持っている。日本帝国主義(日帝)の強制占領時代、済州島は朝鮮本土に勝るとも劣らぬ抗日運動の精神を持っていた。小さな島だが、奪われた国を取り戻そうと、全島民が一致団結して闘った誇らしい歴史と伝統、そして抗日運動の精神が脈々と息づいていた。
そうした独立運動のひとつに海女(あま)たちの闘いがある。一九三一年当時、海女は約三万人いたが、日本人の商人は秤(はかり)の目盛りをごまかすことが多く、これに我慢できなくなった海女らは、日本人道知事に対して抗議運動を行った。彼女らが立ちあがるまでには、独立運動の先覚者、社会主義系列の教育運動――朝鮮語の文字を教え、独立精神を鼓舞する――活動があり、こうした意識化活動の成果として、抗議運動が展開された。これは海女らの権益運動、生存権闘争が抗日運動へと発展した例だ。
一九四四年末ごろから日帝は敗亡の坂を転げ始める。この当時、日帝の大本営は、最小限、日本本土への米軍上陸を阻止しなければならないと考えた。大本営の参謀らは、沖縄か済州島を通じて日本本土に進攻してくると想定し、中国に配備されていた精鋭の日本軍を転戦させ、済州島に集結させた。当時の済州島の人口は約二十三万人なのに対して、武装した日本軍は八万人だった。米軍は済州島を目指さず、幸いにして戦闘はなかったが、もし上陸作戦を実行していたなら、沖縄と同じような凄(せい)惨な地上戦が展開されただろう。
さて、それでは四・三民衆抗争がなぜよりによって済州島で起きたのだろうか。戦後の米国の戦略は、新たに独立した国々を親米国家にしようとするものだった。朝鮮も米ソ共同委員会によって分断を回避しようとしたが、結果的には一九四七年になって南北分断が決定的になる。米国の指導のもと、李承晩は親日派官僚らをそのまま登用して権力基盤を固めた。
しかし済州島では、島民らの強い支持を土台に、人民委員会が各里単位で急速に樹立された。コメなども公平に分配し、治安、防疫なども人民委員会が管掌して円滑に運営した。ところが米軍政当局は人民委員会を認めなかった。
一九四七年に済州市中心部にある観徳亭で開かれた三・一独立運動二十八周年記念式後のデモに米軍政警察が発砲して六人が死亡した。これに抗議して、商店や企業はもちろん、済州道庁の公務員、警察までが参加するゼネストを行う。一方、一九四八年になって、人民委員会の青年グループが南朝鮮労働党済州島党に再編された。弾圧に対して座視したまま死ぬことはできない、「抵抗しよう」ということだった。青年武装隊は右翼団体と警察支署など十一か所を襲撃する。この日が四月三日、つまり四・三蜂起と呼ばれるゆえんだ。済州島民らは四・三蜂起(ほうき)の責任を問わないなら、武器を手放すなどの平和交渉を行う。しかし、米軍政は蜂起の鎮圧のために米軍大佐を最高司令官として派遣し、大韓民国成立後には焦土化作戦を指揮した。
米軍政は韓国だけの単独選挙を通じて南側だけで政府を樹立しようと、五月十日に選挙を強行し、八月十五日に大韓民国政府が樹立される。米軍政から李承晩政権へ形式的に権力が委譲された。政府樹立後、済州四・三民衆抗争を鎮圧するために派遣された軍部隊がこれを拒否して麗水、順天で反乱を起こし、智異山などでパルチザン闘争が始まった。しかし、大規模な反乱は制圧され、済州島を残すだけとなった。李承晩政権は済州島に戒厳令を発令して、釜山、大邱から多数の軍隊が増派された。陸地の軍人は、島民と見れば無条件に銃殺した。言葉で表現できない虐殺が強行された。まさに死の島だった。朝鮮戦争の開戦後にも数多くの島民が予備検束で、あるいは刑務所で虐殺された。
それでは四・三精神とは何か。それは反外勢自主化闘争であり、韓国の現代史上最初の統一運動だといえる。
歴史は金九先生の訪北を偉大な統一運動として記憶する。しかし同じ時期、済州島民は五・一〇単独選挙を拒否した。この歴史に対して、これまでどんな評価もなかった。分断の歴史から四・三民衆抗争を見ると、済州島民は大韓民国の建国に反対した逆徒になるが、南北が完全に統一された歴史から済州四・三を見るなら、島民が五・一〇単独選挙を拒否したことは、偉大な統一運動だったと評価できる。統一された歴史で済州四・三民衆抗争が正しく評価されるよう願う。
済州島民への計画的な殺りくは、米軍政の戦略が貫徹した最初のジェノサイド(大虐殺)だと考える。 済州島に対する地域的偏見に〈アカ〉との政治的偏見を加えて、島を完全に踏みにじった韓国現代史で最も悲劇的な集団虐殺だ。その責任は、米軍政と李承晩政権にある。当時の済州島の人口二十七万人が四・三以降、二万五千人から三万人が犠牲になり、十五万人の被災者が発生し、百八十か村のうち百三十村が燃やされてしまった。
韓国の民主主義が進展するなかで、ついに一九九九年十二月、「済州四・三事件真相究明および犠牲者名誉回復に関する特別法」が制定され、真相究明と名誉回復が進み、四・三平和公園も造成された。二〇〇三年十月、盧武鉉大統領は済州島で「国政に責任を負う大統領として、過去の国家権力の過ちに対して、遺族と島民のみなさまに心から謝罪と慰労の言葉を申しあげます」と公式に謝罪もした。これまで現職の大統領が過去の誤りを認め、謝罪したことはなかった。これを聞いて島民は全員涙した。最も模範的に解決されているのが「済州四・三」ではないのかと思う。
済州島は四・三の惨禍を乗り越えて、世界平和の島としてそびえ立っている。抑圧された者らが熱望する平和の精神がどんなものであるかを示す準備をしている。そのひとつが四・三平和公園だ。済州島は、国内外の人びとが集い、平和と人権を語り合い、世界平和の発信地になるための準備をしている。