【読書案内】核と軍隊なき地球への構想
『原爆詩集一八一人集』
長津功三良、鈴木比佐雄、山本十四尾=編
つまり、詩人か、よほどの愛好家でないかぎり、この国ニッポンで、詩を読むこと、ましてや朗読することなどは、〈非日常的なこと〉だけど、――ほぼ二週間、わたしは『原爆詩一八一人集』に憑(と)りつかれていた。それは夏の終わりころだったが、立冬を過ぎたいまも、ときおり、任意のページを開き、詩を読み、そして考える。
詩は、その芸術の形式において、詩人の思想が、生なましくも痛いたしく、偉大さも愚かしさも、すべて、それは恐ろしいほどに、赤裸々に表現される。
詩集の冒頭、峠三吉、栗原貞子、原民喜と続く、最初期の原爆詩群は、絶対悪としての原爆への怒り、死者と傷ついた者たちへの祈りと、絶望からの再生の希望を詩(うた)って、凄絶かつ美しい。〈ヒロシマ、ナガサキの後に、詩を書くこと〉の意味、思想が読む者の胸を打つ。
しかし、である。発表年代順にまとめられた詩を読み進めていくと、わたしは、このすぐれたアンソロジーにしても、〈風化〉し、通俗化する思想が垣間見られて、決して軽くはない苦痛を感じたことを、告白しなければならない。
最初期の、あのすぐれた詩篇にも弱さがあり、それを一九七三年、栗原貞子が「〈ヒロシマ〉というとき」を発表して、克服を目指した。栗原をして、二十八年かかったこの思想。
「(前略)〈ヒロシマ〉といえば/〈ああ ヒロシマ〉とやさしくは/返ってこない/アジアの国々の死者たちや無告の民が/いっせいに犯されたものの怒りを/噴き出すのだ(後略)」
それでも在日朝鮮人のわたしは、この詩に、どうして〈朝鮮〉という言葉がなかったのか、と寂寥(せきりょう)感をおぼえる。
これへの厳しい答えが、趙南哲の「座布団」「炭」だし、在日の詩人の言葉であり、石川逸子の秀作だった。また、浜田知章、御庄博美らの詩が表現する確固とした思想と、彫琢(ちょうたく)された言葉は、わたしの不満が、ないものねだりなのかも知れないと、思わせてもくれる。
だが、西村啓子の「祭典」を読まされる。原爆投下と、太い実線でつながれる天皇制をそのままにしている日本国の詩人が、そのことを恥ともせず、〈天皇制大日本帝国〉の植民地支配に原因する半島分断の苦痛を薄笑いしながら、「原爆詩」を書いたと、善人ぶる。
詩とは恐ろしいものだ。読みながら、自分が試される。核のない世界、究極的には軍隊をなくした地球への思想と構想が、この詩集にある。それにどう答え、行動するかは、わたしたち一人ひとりの課題になる。未来のために、〈非日常〉を経験することを強くお勧めする。
(黄英治)
(発行 コールサック社、二千円+税)