【資料】分断の痛み抱える彼女らと共に歩む
海外同胞の歴史紀行に同行して
十月五日から九日まで行われた「わが同胞ひとつに海外同胞歴史紀行団」に同行したシン・スギョン執行委員長が、「わが同胞ひとつに運動本部」のニュースレター(十月二十三日付)に掲載した同行記を紹介する。
申秀京(パン工場事業本部執行委員長)
十月五日、仁川空港で最初に到着した名古屋からの四人を迎えて、四泊五日の日程が始まった。続いて広島、東京、大阪からあわせて二十人が入国した。彼女らの旅券は大韓民国政府が発給したものだ。在日朝鮮人の二世、三世の彼女らが、生まれた場所でもないのに、両親の故国を国籍としているのはなぜか、その痛みが何なのかを、そのときはまだ推し測れなかった。しかし、在日同胞との出会いは、北側の同胞と会うときのように、思わず互いを抱きしめることから始まった。
初日は、「わが同胞ひとつに運動本部」が準備した歓迎食事会と、南山タワーの見学で終えた。翌日は京畿道の坡州地域を中心にした分断線を紀行した。「自由の路」を行きながら、漢江河口水域の解説をし、烏頭山展望台、統一村、都羅山展望台、都羅山駅を駆け足で見学した。参加者に深い印象を残したのは、やはり都羅山駅だった。まっすぐに続くソウル―ピョンヤン鉄道の線路に立っただけで涙を浮かべる姿から、彼女らの人生には分断の痛みがつまっていることを知った。ソウルへ戻り、「在日同胞社会の現況と支援事業を媒介とした統一運動」とのテーマで、パン工場事業本部の経過と現状、大阪本部の結成と活動、在日韓国民主女性会を中心に在日同胞社会の現状について討論会を行った。
全羅南道の智異山をめざした三日目。晴れ渡った空を見あげて出発したが、智異山のすそ野で雨が降り出し、ソンサム峠に着くころには、大粒の雨に変わった。今回の登山には、高齢の長期囚の先生も同行するのに加え、訪問団の平均年齢は五十代(!)。それでも、不安を振り払ってレインコートで智異山の懐のなかへとこわごわと行軍を開始した。水たまりや溝をかきわけ進む一行は、智異山のあちこちに話の花を咲かせた。約一時間の短い行程とはいえ、難路を克服した充実感から、老姑壇の休憩所では、これまで経験したことがないほど楽しい歌と踊りのマダン(広場)となった。
下山途中に立ち寄った華厳寺はすでに闇のなかだった。境内を回りながら、山寺の静まりかえった風景にひたっていると、夕刻のお勤めを知らせる太鼓が鳴り始めた。一行は僧侶の太鼓を打つ姿と、山に響く太鼓の音に息をひそめ、疲れも忘れて酔いしれた。
初日と二日目、わたしは宿舎の前で日本からのメンバーとさみしく別れなければならなかったが、ようやくこの日から宿をともにすることができた。そうして宿舎の明かりは、夜明けまで消えなかった。
前日の雨がうそのように美しく晴れ渡った四日目。智異山から光州に行く道で、東京から来た三十代の若い友人らが歓声をあげた。 彼女らの外国人登録証に記されたおじいさんの故郷「淳昌」を、車窓の交通表示板で見つけたからだ。地図を開いて道を確認しながら、故郷にいってきたかのように喜ぶ彼女らに、切なさとともにすまなさを感じた。わたしの故郷へのさめた記憶と、彼女らの懐かしさとうれしさには、大きな差があることを感じたからだろう。
故国での最後の夜、そのさみしさを紛らわすかのように、宿舎での宴会は長く長く続いた。互いへの感謝の気持ちと、次に会う約束を交しながら。
最終日の五日目、江華島の伝燈寺、広城堡、草芝鎮を後にして空港へ向かう道は、だれもが容易に口を開けなかった。四泊五日間のあわただしい日程のなかに織り込まれた歴史と思い出、約束がそれぞれの胸に刻まれ、休みなく続いたにぎやかなおしゃべりも、少しの間、息をひそめた。
海外同胞歴史紀行団の日程は、名残惜しさを残して終了した。南と北、海外の同胞がひとつになる日を準備しようと心に誓いながら……。
四泊五日同行しただけで、在日朝鮮人の人生、世代を超えて引き継がれる哀歓を、読みとり、理解したとはいえない。けれども、彼女らが異国で守っているものが、この地にあるもので、わたしたちがそれを大切にしなければ、彼女らに大きな苦労を背負わせてしまうと、もう一度心を引き締める。南と北、海外の同胞がひとつになる日を準備しよう。