【読書案内】この物語の読者は誰か
『いま、私たちの隣りに誰がいるのか』
申京淑ほか著
作家が小説を書くのは、何よりも自分自身のためだ。しかし、そのとき、読者がまったく想定されていないわけではない。小説家はだれかに向けて物語を送り出す。とするなら、短編小説アンソロジーである本書の「現代韓国を代表する若手作家七人」の読者は、だれなのだろう。そんな疑問が浮かぶ。
彼女(彼)らは一九六〇年代生まれで、何らかの文学賞を受け、韓国文壇の中堅として活動している。本書に収録された作品の登場人物は、二作を除いて、都市に暮らす高学歴の男女だ。物語の背景に韓国社会の現在――経済不況によるリストラ、家庭の崩壊、南北分断の影が見えないこともないが、それが主題であるわけでもない。夫婦、恋人同士、肉親、大都会の隣人の断絶と和解、関係の破たん、絶望、そして、わずかばかりの希望が物語られる。
本書の「解説に代えて」で中沢けいは、「民主化を果たさなければ国際社会の中で取り残されるという危険を孕(はら)んだ選択の結果としての(韓国の)民主化の道程がそこにある」としながら、本書の作家と作品をなぞる。だが、韓国の民主化は、「選択の結果」などという矮小で、悠長なものではなかった。人びとの死活をかけた闘争であり、おびただしい犠牲と引き換えにかちとられたものだった。同じ文のなかで中沢は、九五年の韓日文学者会議で、柳美里が「むりやり『祖国の言葉』を教えようとするような雰囲気への挑発」として、「今さら小学生のようにハングルを覚え不自由な発音で韓国語をしゃべろうとは思わない」と発言し、本書の表題作の著者・申京淑が、自分の使う言葉を問うことがなかったと、「柳美里氏の気持ちもよく解ります」と応答したことを紹介する。中沢はこれを「もはや、怒号と罵声の時代は終わりを告げて、穏やかな声でそれぞれの内面にあるものを語り合える時代が来ていることを告げる声」というのである。しかし、中沢と申は、柳の〈計算〉に乗ってしまったのだ。柳がハングルを学ばないのは彼女の勝手だ。そんな彼女が日本語で書くのは、日本語でしか書けないからだ。しかし、そうではない在日朝鮮人も確かに存在しているのだ。〈在日朝鮮人を標榜する〉柳に乗っかって、安易に「共感」するのは、支配・抑圧言語でもある日本語への緊張感を武装解除するだけである。
そこで、冒頭の思いにつながる。日本と韓国、そしてこの世界の現実は、「もはや、怒号と罵声の時代は終わりを告げて」と澄ましていられるのか、ということだ。
本書には「夾竹桃の陰に」をはじめ、佳作が少なくない。しかし、漆黒の深海で、生きるために自ら光を発する生物のような、作家が自身の生きる世界に徹底的に自覚的であり、その証しとしての作品なのか、といえば、あまりに物足りない。現代作家にとって、読者は、まず第一に同時代人である。文壇と文学、読者の関係を、改めて考えさせられた。
(英)
(発行 作品社、定価千八百円)