民族時報 第1050号(04.11.21)


【投稿】

    故国訪問事業に参加して

分断の悲しみ 再会の涙

李 鐵(韓統連大阪本部代表委員)

 わたしはいまだに興奮が冷めやらぬ思いで、韓統連の故国訪問事業(十月十日―十二日)と故郷の済州島訪問(十二日―十四日)の五日間を思いおこしています。

 思えば十八歳の時に在日韓国青年同盟(韓青)の運動に身をおいて以来、今日まで三十数年間、どんなにこの日を待ちこがれたことか、言葉に言い表せないほどです。

 韓青と韓統連の運動の渦中にあって、時にはさまざまな圧力を受け、家族や友人、知人とのあつれきも体験しました。その影響は祖国にいる家族にも及び、運動と生活の狭間で身を裂かれる思いをいく度となく味わいながらの三十数年間でした。それゆえ今回、百五十人の仲間と訪問した故国での感慨はひとしおだったのです。

 光州から同行した韓統連の済州島出身の仲間三人とともに空港に到着すると、現地の参与連帯の活動家らが歓迎の横断幕を持って一行を迎えてくれました。感激の一瞬でした。花束をもらうや記者からの質問攻めにあい、うれしいやら戸惑うやらで胸が高鳴るばかりで、質問にうまく答えられませんでした。

 参与連帯の仲間の案内で一九四八年の済州島四・三事件の犠牲者を追悼する平和公園を参拝しました。献花をして慰霊碑の内部に案内された時、姉がわたしを大声で呼びます。「ここに兄の名がある」と。なんと当時十六歳で四・三事件に巻き込まれ銃弾に倒れたとアボジから聞かされていた実の兄の名があったのです。

 一度も会ったことがない兄です。十六歳で銃弾に倒れた兄の無念さと、わが民族のあまりに過酷な運命が一瞬にしてわたしの五体へと津波のように押し寄せてきました。思わず兄の名が刻まれた小さな石にひざまずき、万感の思いを込めて礼をしました。突然の出会いはあまりにも、あまりにも悲しいものでした。

 翌日、祖父母と母そして兄の墓に参り、それぞれに大きな声で墓参を告げました。特に母は、わたしが十五歳の時に死別して以来、初めての墓参でした。死ぬまでに墓参ができればと思っていたのですが、今回こうして訪ねることができ、長年の胸のつかえが取れた思いでした。

 姉弟三人の、生まれて初めての出会いは最初、喜びと戸惑いの混じったぎこちないものでした。しかし肉親の情がすぐに三人をなごませ、姉の家で食事をするころはすっかり打ち解け、互いの家族の話で泣いたり笑ったりしながら時の経つのを忘れました。

 ところが、今回の故国訪問や韓統連の活動の話題になると、姉の表情が少し固くなるようでした。思えば姉は少女のころ、兄の悲劇的な死と後難を恐れる祖父のはからいでアボジが日本に渡り、半年後オモニがその後を追って以降、祖父と二人暮しで、辛くさみしい少女時代を過ごしました。結婚後は会ったこともない弟の日本での活動のために、公安当局の干渉があったらしく、夫や舅(しゅうと)、姑(しゅうとめ)に気を使っての気苦労を重ねてきたのでした。姉の人生を思うとすまなく、また自分の気配りのなさが情けなく、思わず涙ぐんでしまいました。祖父の死後、姉は韓国では天涯孤独の身となりました。実家のない姉のさみしさがどれほどだったかと思うと、いたたまれない気持ちになりました。

 わたしの韓青活動の影響で、アボジは長年旅券をもらえず、駐日韓国領事の呼び出しを受け、息子を説得して活動を断念させることを条件に韓国入りを許すといわれた時代でした。わたしの活動の継続が父娘の再会をはばみ、姉弟の出会いを遠いものとし、またそれが今回の出会いを喜びとともに、ほろ苦くしたのでした。

 わたしは姉を慰めようと翌日の夜、姉一家とカラオケに行きました。姉も歌が好きでした。古い歌の「失くした三十年」の三十年を五十年に変えて一節を姉が、二節をわたしが歌いました。歌いながら姉、弟、わたしそして姉の家族みんなが泣いてしまいました。分断の悲劇は、流した涙で洗い流すことはできませんが、出会いの喜びの涙で裂け目を満たし、心を通わせる船を浮かべ、その船をもっともっと大きくしていくことはできます。

 翌日、別れを惜しみ再会を誓って空港まで送ってくれた姉と姉の家族と別れて、弟と二人済州島を後に帰阪しました。二時間に満たぬ飛行時間では、あの切ない別れをいやすことはできませんでした。


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