民族時報 第1047号(04.10.11)


【資料】思想を処罰する法律は不要/全死刑囚の半数が保安法で

    Q&A 国家保安法廃止、そこが知りたい A

Q保安法を廃止すると、光化門で北朝鮮国旗を振っても、主体思想研究所をつくっても、金日成主席の追悼集会を開いても処罰できなくなるのではないか。

A本当に驚くべき発想ですね。こんなことが本当に起こったら、どうなるだろうか。光化門で北朝鮮の国旗を振って「金正日国防委員長万歳」を叫ぶなら、それこそ冷やかしに過ぎないのに。それに主体思想を研究している場所は現存している。思想をめぐる論争と検証は、思想の「市場」に任せるのが自由民主主義ではないのか。金日成主席の追悼集会も世間からよく見られないだろうが、やりたいというものをどうやってやめさせられるのか。光化門で北朝鮮国旗を振って、主体思想を研究して、金正日国防委員長と金日成主席を称賛する行為は一般市民の情緒に合わないのは明らかだが、そのような行為が明確に国家安保を脅かさない以上、法律をタテに処罰できるだろうか。そうしておいて、自由民主主義社会という看板を掲げられるだろうか。頭のなかの思想を引っ張り出して(はなはだしくは拷問によって))赤いか、赤くないかを判断して罰する行為が五十年以上もほしいままにされることで、反共の恐怖が、ひょっとするとあなたの人権指数を引き下げていないか胸に手を当てて考えてみよう。仮定を現実のように突きつけて、反共主義のあかにまみれた国民の不安心理と危機意識を助長しながら国家保安法の存続を扇動する行為は、まさに旧時代的策略だといえる。

これ以上に恐ろしいことは、公然と盧武鉉政権に対する軍事クーデターを扇動することではないだろうか。実にこのような発言をためらわない者らは、国家保安法死守を叫ぶ人びとと同一人物である。彼らをどうすればいいだろうか。それでもわれわれは、真に国家安保を危うくするこうした謀略者らを国家保安法で処罰することを要求しない。自由民主主義社会では、こんな主張も表現の自由として認められているし、処罰に意味がないからです。主張には主張で、討論には討論で、相互に応答すればよい。ただ、扇動者らが暴力を動員して韓国社会の根幹を揺るがすほどに危険な状況をもたらしたなら、その時は刑法で処罰すれば済むことだ。

 Q北朝鮮が変わっていないのに、どうして韓国だけ変わらなければならないのか。

 A北朝鮮が変わっていないだって。われわれの周囲に金剛山あるいはピョンヤンへ行ってきた人たちが多くいるのに、変わらなかったというのか。ハンナラ党代表の朴槿恵氏も北に行ってきたというのに。この人もついこの間までは、南北の和解と協力の一助になればといっていたのに、国家保安法問題が出るとすぐに保安法死守に変わった。実に苦々しいことだ。そのうえ、今年から開城工業団地が試験的に稼動するのに、こんなざれ言をいつまで続けるつもりなのか。北朝鮮が戦争を挑発する能力を持っていると考えるのか。いくら戦争が合理的な行為ではないとはいえ、北側の金剛山に行ってきて鉄条網の向こうの同胞の暮らしを見てきた人びとが多いのに、北朝鮮の南侵を心配するのか。それほどに北朝鮮の南侵をうんぬんするのは時代錯誤的なことであり、現実を見誤ることだ。

「赤化の野望」、本当に幼いころから聞かされ続けたうんざりする文句。日曜日午後、急に鳴りだすサイレンに肝を冷やした記憶があるはずだ。そんな南侵脅威と戦争恐怖を助長しながら、独裁政権は政権危機を克服し、それを維持してきた。彼らの最強の武器がまさに国家保安法だった。国家保安法で死刑にされた人が、全体の死刑囚の半数を占めるとの統計は、これを雄弁に物語っている。それで国家保安法が憲法の上位に存在すると自ちょうまじりの言葉がはやったことがある。もちろん、南北間に戦争の危機が高まったことがなかったわけではない。国民の緊張した情緒もこのような経験に由来するものだ。しかし最近、朝鮮半島に戦雲がただよう時、その危機を助長して脅しながら戦争の危機を高めるのは、韓国でも北朝鮮でもない。それがだれ(米国)であることをみんなが知っている。

ひと言つけ加えるなら、北朝鮮が変わりさえすれば、韓国も変わることができるのか。北朝鮮が永遠に変わらなければ、韓国もしっかりカンヌキをかけて対決意識を高めなければならないのか。体制競争で事実上勝利した韓国が先に門戸を開いて、北朝鮮の変化を助けることが自信に満ちた実践ではないのか。現在北朝鮮は、確実に改革・開放の道に入った。それが緩慢で困難であるとしても、しっかりと援助することこそが朝鮮半島に平和を構築し、ひいては統一の道を整備することではないか。(つづく)


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