【連載】
韓統連 30年の歩み(中)
1983年 〜 1993年
この期間は、内外情勢の大きな変化とともに、反独裁民主化闘争と反外勢民族自主化闘争、祖国統一運動が一大発展して、民衆の運動に希望と展望が大きく開けた時期であった。
このなかで、韓国民主回復統一促進国民会議(韓民統)は二度の重要な組織発展をみた。一つは八三年に結成十周年を迎えて「第二宣言」を採択したことであり、もう一つは金大中氏と合意して結成した組織を八九年に在日同胞の組織へと改編したことである。 韓民統は八三年、朴正煕独裁政権とのし烈な闘いと、新たに光州市民を大虐殺して登場した全斗煥軍部集団との十年間の活動を総括した。韓民統は第十二回中央委員会で、米国の支配と干渉を排除しないかぎり、真の民主化も南北統一もありえないとの観点から、新たな五大綱領―@外国勢力の支配と干渉の排除、民族自主権の回復Aファッショ独裁の打倒、民主連合政府の樹立B分断固定化に反対、外勢の干渉なく(連邦制による)自主的平和統一の実現C反戦反核運動の推進、朝鮮半島の非核地帯化D在日同胞の民族的権益の擁護を採択し、反外勢民族自主を救国運動の基本路線に定立した。
反外勢民族自主を課題の第一においたことで、「第二宣言」は後に韓国民衆運動の理念になる「自主・民主・統一」をいち早く取り入れたことを意味した。
韓民統はまた、八九年の第十五回拡大中央委員会で韓民統結成後の十六年間の活動と業績を誇りと自負心で高く総括し、韓民統を発展させて在日韓国民主統一連合(韓統連)に改編した。そして新たに「韓統連宣言」と「韓統連綱領」を採択した。
組織の発展的改編は、何よりも本国で民族民主運動勢力が飛躍的に成長し、祖国統一運動がこれまでになく高まった反面、反統一勢力の永久分断策動もまた非常に危険な段階で進められ、国際情勢の新たな変化に主導的な対応が必要になったことにこたえたもので、在日民族民主勢力として自己の位相を明確にし、自主・民主・統一の新たな地平を切り開いていく必要性があった。 このようなことから、韓統連は@外勢に反対し、民族の自主権をかち取るA軍部独裁を清算し、真の民主化に向けて活動するB自主的平和統一を実現するC反戦反核運動を推進し、朝鮮半島を非核地帯化するD在日同胞の民族的権利を擁護するE国際連帯運動を強化する――の六大綱領を発表した。
そして新しい議長に郭東儀氏を推戴した。
全斗煥は八四年九月に訪日し、中曽根首相との首脳会談で安保経済援助を要請するなど、売国外交を展開した。これに対して、在日民主勢力がハンストを行うなど内外の民族民主勢力は一大反対闘争を展開し、また韓日連帯闘争が高まった。反外勢闘争は全斗煥・レーガンによる韓米共同声明の糾弾闘争、ブッシュ元大統領の訪韓反対闘争へと発展した。
八六年に入ると、本国の民族民主勢力は直選制改憲を求めて「民主制改憲推進一千万人署名運動」を開始した。追いつめられた全斗煥独裁政権は八七年一月、ソウル大生の朴鍾哲君を拷問で殺害した。この殺人事件は全国民の怒りを呼び起こし、全斗煥体制を決定的に追いつめる「六月民主抗争」へと発展した。これに驚いた盧泰愚は、直選制改憲を受け入れる「六・二九宣言」を発表し、民衆の激しい闘争を必至に回避した。
この期間の主要な課題に、反戦平和運動がある。とくにチーム・スピリット韓米合同軍事演習反対運動は十年間を通して緊張した闘いだった。チーム・スピリットは八三年には十九万人、八四年からは二十万人規模に増強し、原子力空母やパトリオット・ミサイルを投入するなど、毎年韓国全域で演習を繰り返し、軍事緊張を高めた。これに対して、韓民統は単独の集会やデモ、韓日連帯集会などで強く反対した。
韓米日の軍事的連携が強まるなか、日本は歴史教科書のわい曲など植民地支配の美化、軍事大国化への準備を進めたが、韓民統は民族自主の闘いとしてそのつど厳しく批判した。 韓統連が組織改編を迎えるなかで、もっとも鼓舞的で誇り高い活動は九○年から始まった「祖国の平和と統一のための汎民族大会」の開催に貢献したことだ。
韓統連は、盧泰愚軍部政権のもとで国内統一勢力が南・北・海外の三者協議に参加できない状況で、海外同胞とともに南北をつなぐ懸け橋の役割を立派に担い、第一回汎民族大会を成功させた。その後、汎民族大会は毎年開かれ、民衆主導の統一運動へと大きく発展した。
統一機運が高まるとともに、南北の当局者による会談も進み、九一年末に「南北韓の和解と不可侵および交流協力に関する合意書」と「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」を生み出した。
八七年の「六月民主抗争」は民主化闘争を大きく前進させた。しかし年末の大統領選挙で、民主陣営の分裂によって盧泰愚政権を生み出して民主化を五年間も遅延させたことは、反独裁民主化闘争で大きな痛手だったといえよう。(つづく)