一九四五年八月解放後、在日同胞は単一の同胞組織(在日朝鮮人連盟・朝連)を結成したが、南北の分断と対立のなかで組織は分裂し、四六年十月に「在日本朝鮮居留民団(民団)」が結成された(四八年八月、大韓民国政府樹立で在日本大韓民国居留民団と改称)。
民団は、反共を国是とする本国政府の政策を最優先し、組織運営にも本国政府の露骨な干渉が行われたために、次第に活動に著しい混乱をもたらすようになる。その結果、本国政府の無分別な内部干渉を受け入れるのか、自治団体としての自律性を守るのかをめぐって、内部に対立と葛藤(かっとう)が起きてきた。こうした状況で、民団は六〇年の四・一九革命による李承晩政権の崩壊直後の五月、「民団第三次宣言」を採択する。これは今後、本国政府の政策に対しては、在日同胞の権益を守るという立場から是々非々の姿勢で望むことを明らかにしたもので、反共イデオロギーによって民団を政治的に利用してきた李政権の在日同胞政策を批判した画期的なものであった。
ところが、五・一六クーデターによる朴正煕軍事政権の出現で、状況は再び変わった。軍事クーデターを追い風に、日帝時代の親日分子として有名な権逸が中央団長に就任し、民団への朴政権の干渉が始まり、駐日代表部(韓日国交正常化前の大使館の前身)を通して、民団を御用化しようとする策動が公々然と強化された。このような状況のなかで、自治団体としての民団の自主性を守ろうとする良心的な人々は、六一年十月に「民団正常化有志懇談会」(有志懇談会)を組織し、民団の自主化、民主化を要求しながら、在日同胞の法的地位闘争などを力強く繰り広げた。
このような闘争は広範な民団同胞の支持を受け、韓日条約の締結強行後、国内外で反政府機運が一層高まるなかで、朴政権に一方的に追従していた民団中央執行部は完全に窮地に陥った。
民団内で民主化機運が高まり、圧倒的多数の同胞が民団組織の改革を望むようになった。七一年の民団中央大会では民主派が推す団長候補の当選が確実視され、同胞の期待が高まった。こうしたときに、本国政府の露骨な選挙干渉が行われたのである。
七一年三月、民団中央大会を前にした中央委員会で、当時公使だった金在権が来賓あいさつで「某団長候補の有力な支持者が、朝総連幹部とホテルで密談し、反国家的言動を行った内容を録音した。いま公開すると選挙干渉になるから、大会後に公開して処断する」と公言した。大使館や民団中央側は、某人物とは裴東湖氏であると言いふらし、当時有志懇談会の支持を受けて出馬した兪ソクチュン候補を支持しないよう、露骨な選挙干渉を行った。結局このために、大使館側が推す李禧元が中央団長に当選し、兪候補は落選した。
大会後、裴氏と有志懇談会は、金在権のいう録音の公開を要求したが、ついに公開されなかった。これが「録音問題」事件である。
また駐日大使館の圧力によって、民団中央は民団の自主化、民主化闘争に参加していた民団東京本部、神奈川本部に「直轄処分」をくだし、在日韓国青年同盟(韓青同)などの傘下団体認定を取り消し、民団発展に大きく寄与した幹部や活動家を手当たり次第に権利停止や除名処分にするなどの暴挙を働いた。
このような状況に直面した自主化、民主化勢力は、有志懇談会を基盤に新たに「民団自主守護委員会」(自主委)を組織し、民団御用化反対運動を一層強化した。
七二年の七・四南北共同声明の発表は、本国だけでなく在日同胞のなかにも祖国統一運動への大きなうねりを引き起こした。自主委などが全国的に共同声明支持・歓迎大会を行ったのに続いて、七月二十三日、分断後初めて、民団と総連の支部(東京・大田)が共催で七・四南北共同声明支持共同大会を開いた。これを契機に、八月七日の韓青同・朝青同共同大会、八月十五日の民団東京本部・総連東京本部共同大会など、さまざまなレベルの共同大会が開かれ、南北共同声明への支持は在日同胞の社会全般に拡大した。
有志懇談会のメンバーは、発展する情勢に呼応して統一運動を推進する母体を結成することを決定し、八月二十日に「民族統一協議会」(民統協)を結成した。七・四南北共同声明の精神である自主・平和・民族大団結の三大原則で祖国統一を達成することを綱領とした民統協の発足により、在日韓国人運動は、民団という枠から全民族的な運動へと発展した(民族時報は七二年十一月、民統協機関紙として創刊され、韓民統発足後は韓民統機関紙となった)。
民統協が結成されたことで、民統協、自主委、民団東京、民団神奈川、韓青同、婦人会東京による「六団体協議会」が構成された。六団体協議会は民団中央に対抗する民主勢力の拠点となり、民団民主化運動、祖国統一運動が活発に展開されることになった。この六団体協議会が、韓民統結成の組織的母体になったのである。
一方、七一年の大統領選挙を通して長期執権に踏み出した朴政権は、七二年十月に維新クーデターを起こし、「一人永久執権体制」を築いた。朴政権は民主化・統一運動に対して過酷な弾圧を繰り広げ、国民への圧制は日ごとに深まっていった。
情勢は、朴軍事独裁政権の圧政をはねのけ、民主化・統一運動を前進させる新たな組織と運動を求めており、六団体協議会に結集した在日民主人士の思いも同じであった。折しも、七一年の大統領選挙で朴正煕に打撃を与え、民主陣営の有力な指導者に浮かび上がった金大中氏が、日本に滞在していた。金大中氏は、維新クーデターが起きると、その暴挙を糾弾しながら、海外で民主回復と統一促進運動を繰り広げる決心を内外に明らかにした。
こうして在日民主運動の代表らと金大中氏は手をつなぎ、ともに反独裁民主化・祖国統一運動を力強く繰り広げること、その運動を指導する組織として「韓国民主回復統一促進国民会議(韓民統)日本本部」を結成することに七三年七月、合意した。
七一年の大統領選挙で野党候補として善戦した金大中氏は、股(また)関節の治療のため、七二年十月十一日から九日間の予定で日本を訪れていた。彼の滞日中の十月十七日、朴正煕大統領は非常戒厳令を宣布し、永久独裁体制ともいうべき「維新体制」の構築を図った(維新クーデター)。
この維新体制に対して、金大中氏は厳しい批判を行った。
「韓国内ではいまだれもなにも言えないし、また言う人もいない。幸いにわたしはいま国外におり、自由に意見を述べることができる。それなのに、もしわたしがいまの政権の報復を憂いて口を開かないとすれば、これは全国民を裏切ることになろう」(金大中著「独裁と私の闘争」)。金大中氏は、国外で反朴運動を展開することを決意した。これは、事実上の亡命生活に入ることを意味した。
非常戒厳令宣布の翌日の十月十八日、金大中氏は「朴正煕大統領の措置は、統一を語りながら自身の独裁的永久執権をねらう驚くべき反民主的措置である」という声明を東京で発表したのに続き、「維新憲法案」とそれに対する国民投票(七二年十一月二十一日実施)の結果についても声明を発表、あくまで維新独裁に反対する姿勢を鮮明にした。
一〇・一七非常戒厳令によって亡命生活を覚悟した金大中氏は、日本と北米で反維新民主化を訴えた。日本から米国に渡った金大中氏が接触した在米韓国人は林昌栄氏(元韓国国連大使)、林炳圭氏、柳基弘氏らであった。渡米活動の集大成は七三年七月六日、ワシントンのメイフラワーホテルで開かれた韓国民主回復統一促進国民会議米国本部の発起人大会だった。在米韓国人の反朴勢力を韓民統米国本部として結集させた金大中氏は、四日後の十日、韓民統日本本部の結成を目指して、再び訪日した。
金大中氏は、渡米する前から在日韓国人に対して精力的な活動を展開していた。七三年二月十八日には、長野県白樺湖畔で開かれた在日韓国青年同盟第九回冬期講習会で講演した。彼は前年七二年の第八回冬期講習会でも講演を行ったが、七三年の講演内容は海外同胞に反朴決起を促す激烈なもので、金大中氏には七三年二月の時点ですでに、在外韓国人民主勢力のリーダーとしての意識があったということだろう。
七三年三月二十一日、金大中氏は銀座にある料亭「末広」で元民団中央本部団長であり、新民党国会議員の金載華氏と会い、「(金載華)先生のご指導のもとにやっていきたい」(毎日新聞社編「金大中事件全貌(ぼう)」・趙活俊氏談)と説得し、反朴組織をともに結成することで合意した。二人は翌日の三月二十二日、箱根湯本の橘旅館で開かれた在日民主化運動活動者研修会に参加した。関東地域の在日韓国人活動家約二百人のまえで、金大中氏は「海外同胞が団結して、抑圧され虐げられている同胞のために闘おう」と演説した。その後、上記したような米国での活動を展開したのち、再訪日した金大中氏は七月二十五日、上野の宝ホテルで民団東京本部、民団神奈川本部、自主守護委員会、婦人会、韓青同などの代表三十人が参加して開いた在日韓国人民主化運動代表者会議に出席した。そして、その十日後の八月四日、上野・池之端の旅館で韓民統結成の最後の詰めをする五者会談が行われ、基本路線と人事の骨格を決めた。五者とは金大中、金載華、裴東湖(元民団中央本部議長・当時、民族統一協議会議長)、鄭在俊(民団東京本部団長)、趙活俊(金大中氏の首席秘書・後に韓民統事務総長)の各氏である。
五者会談の内容を「金大中事件全貌」(前述)は次のように記述している。
「五者会談で(金大中)先生はまず、民主政権を樹立してから統一実現を、というかねての基本原則を示して他の四人の了承を得ました。午後九時ごろまでの議論で綱領が決まると、先生が『わたしもサインするから、みんなも』ということで、五人が綱領にサインして韓民統の発足が決まったんです。先生の主張どおり合意をみたので、すっかりごきげんでした。最高に気分がよかったようです」(趙活俊氏談)。「(前略)五者会談では、金大中さんの路線で一致したのですから、元気百倍、実にうれしそうなようすでした」(裴東湖氏談)。
「金大中氏は韓民統の結成が事実上決まったことで、さすがに安ど感があった。その夜、趙活俊を新宿のクラブに誘って、飲めないジンフィーズをなめていたくらいである」(「金大中事件全貌」から)。
このような韓民統日本本部結成の経緯は、金大中氏自身も自筆の文章で以下のように語っている。
「わたしは米国と日本、カナダに反維新民主化の拠点を作るために東奔西走した。そして、まず七三年六月に『韓国民主回復統一促進国民会議』という組織を米国で結成した。まったく同じ組織の東京本部を作るために、わたしは七三年七月に日本を訪問した」「日本でわたしが会い協議した人たちは、第八代国会議員であり、今は亡くなった金載華氏と、わたしの長い親友である金鍾忠氏、および裴東湖、趙活俊氏らであった。彼らは当時、故国でおこっている政治状況を心配し、祖国の民主化と統一を念願していた人士だった。ただ、彼らが朴正煕の維新独裁体制に反対する立場を取ったために民団内では非主流の位置に置かれたが、思想的には疑心の余地がない人たちだった」(「新東亜」八七年九月号・「朴大統領が私に副大統領を提議した」―金大中が暴露する「ら致」前後)。
しかし、韓民統結成前の八月八日、金大中氏が韓国中央情報部(KCIA)によってら致される衝撃的な事件が発生した。これは、金大中氏が暗殺される危険とともに、韓民統の結成に支障をもたらす重大な事態であった。韓民統結成に結集した在日民主運動家らは、ただちに「金大中先生救出対策委員会」を結成して、救出運動に全力を尽くした。日本をはじめ全世界で朴政権を糾弾する声が高まり、金大中氏の 生命だけは幸いにも救うことができた。 在日民主勢力はこの難局を全力で乗り切り、予定どおり八月十三日に発起大会、十五日に結成宣言大会を開き、韓民統の歴史的な発足を宣布した。 その当時の状況を、趙活俊氏は次のように語っている。 「七三年八月十五日、日比谷公会堂で韓民統は予定どおり、大々的にスタートしました。議長には金大中先生が就任するはずだったが、ら致されて不在でしたので、金載華氏が議長代行に就きました。わたしは事務総長になりました。韓民統と救出委員会は表裏一体の関係で運動を進めていきました」(「ある出会い―金大中氏事件秘話」)。